松代藩絵師

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江戸時代前期の伊木彦六(いぎひころく)は、真田信之の小姓として仕えたが、信之没後出家し実誉信西(じつよしんせい)として信之の遺骨を奉じ、また信之の肖像画を描き日夜拝したという。仏画と仏像彫刻にいそしみ、西条村(松代町)法泉寺に大涅槃絵(ねはんえ)が残された(『更級郡埴科郡人名辞書』)。

 三代藩主真田幸道のとき雪柳・守囿(もりぞの)・春信を召し抱えたのが松代藩の絵師の始まりで、信弘・信安時代には三村自閑斎が絵師として仕えた。つぎの幸弘時代の天明・寛政(一七八一~一八〇一)ころから、狩野(かのう)派の大和絵や中国系の宗氏・渡辺氏の唐画、土佐流の浮世絵などを描くものが松代藩中にもあらわれるようになった。

 狩野派では、絵師三村養益と幸専納戸役(ゆきたかなんどやく)の小野斉二、藩士榎田(えのきだ)忠兵衛、用人赤沢助之進らが知られる。唐画は城代を勤めた岩崎伊織(いおり)がよく描いたが、文化初年ころに目をわずらい絵はやめたという。浮世絵は文化初年ころ病死した奥村弥仲太が知られ、綿布に人物や鳥獣・花・幾何学模様などを描く更紗絵(さらさえ)を描くものもおり、高松養碩(ようせき)、植木直衛らがよくした(漫筆)。

 三村養益惟芳(ようえきこれよし)は自閑斎の子で、江戸に行き、幕府御用絵師狩野栄川(えいせん)法印の門に学び、はじめ中小姓格に任じられ、のち寛政八年(一七九六)の冬に給人格になった(漫筆)。三村晴山(せいざん)は、養益の子で一三歳のとき藩の絵師に召しだされたほどの力量があり、狩野晴川院(せいせんいん)塾で学び、狩野派のなかでも抜きんでた天分を発揮した。その画風と気品は異彩を放っている。明治画壇の狩野芳崖(ほうがい)、橋本雅邦(がほう)らにも影響をあたえた。晴山は藩政にも深くかかわり、幕末期に水戸藩の徳川斉昭(なりあき)や薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)にも逢って海防などの国事にもたずさわった。


写真17 伝・三村晴山筆山水図  (真田宝物館蔵)

 山田島寅(とういん)は、寛政十二年に埴科郡西条村(松代町)に生まれ、江戸赤坂の桐畑北渓(ほっけい)に師事後、天保十四年(一八四三)に松代藩絵師となり、同年から京都で岡本豊彦に写実的絵画を学んで安政六年(一八五九)に帰藩した。『絹本(けんぽん)彩色満山紅葉図』・『紙本(しほん)彩色羽毛図巻』などの作品を残している(影山純夫「真田宝物館の絵画」)。

 埴科郡清野村(松代町)の青木雪卿(せっけい)は、更級郡小森沢村(川中島町)の絵師更科(さらしな)雄斎に師事後、藩絵師となり、藩主真田幸貫(ゆきつら)・佐久間象山らの肖像画や松代城の壁画作品で有名になった。幕末から明治にかけての画家で、松代町岩野の地蔵堂に遺作の彩色魚藍(ぎょらん)観音がある。弘化四年(一八四七)の善光寺地震後の嘉永三年(一八五〇)、真田幸貫の領内巡視に随行して『感応公(幸貫)丁未(ひのとひつじ)震災後封内(ほうない)巡視之図』六九場面を写実的に描いた。吉窪(よしくぼ)村(小田切)から真神(まかみ)山峰や犀川辺を遠望したときの図には、左手前から流れる犀川のいくつもの細い流れが描かれている。地震後の復旧状況を知る資料としても貴重である。

 女流画家として恩田緑蔭(りょくいん)がいる。文政二年(一八一九)に恩田織部民正の長女として生まれたゆりは、長じて山田島寅や青木雪卿について絵画を学び、桜雲亭由里子緑蔭と号して「松代十二箇月絵巻」という松代の風俗絵巻を繊細に描いた(一節二項参照)。また「松代町眺望之図」や「一掃百態図」などを残している(仁科叔子「松代藩の閨秀画家恩田緑蔭」)。

 松代藩医高川楽真の養子が高川文筌(ぶんせん)である。水戸に生まれ、谷文晁(ぶんちょう)の画塾写山楼に入門し、画業をみがいた。楽真は文筌を養子として医業をつがせた。文筌の名が知られるのは、嘉永七年(一八五四)のペリー再来航のさい、佐久間象山に随行し、応接図や外国人の舞楽の図を写実的に描いたからである。これらは日米交流のようすを描いた唯一の貴重な図となっている(口絵)。

 柴村(松代町)に生まれた大島芳雲斎は、江戸に出て三村晴山に師事した。帰郷して藩の絵師に召しだされ、人物や動物、山水、花鳥画を好んで描いた。三男の芳暁斎もまた狩野派絵師として藩に抱えられた。

 酒井雪谷(せっこく)は松代町に生まれ、嘉永年間(一八四八~五四)に江戸に出たとき、隣家の松代藩士で歌川流画家の樋畑翁輔(おうすけ)(画号写楽斎玄志)にすすめられ、歌川(安藤)広重に師事した。弘化四年に松代藩士として家督をつぎ藩務に従事するとともに、画業にいそしみ、藩主幸貫に画法を講ずるほどになった。四条円山(しじょうまるやま)派、土佐派などの画技を加えてすぐれた作品を残した。余技として篆刻(てんこく)や西洋銅版画にもたくみであった。維新後は福島(ふくじま)新田村(朝陽北屋島)出身の西洋画家川上冬崖(とうがい)とも交流した。門人に松代御安(ごあん)町の松代藩士富岡永洗がおり、永洗は明治期に風俗画家として賞賛された。福島新田村の山岸瀬左衛門の二男尾之松は、幕末期に江戸に出て、幕府の御家人(ごけにん)川上氏の養子となり、冬崖と号する。幕府蕃書調所(ばんしょしらべしょ)に出仕し、洋画を描き第一人者となり、明治洋画会の先駆者として小山正太郎・松岡寿らを育てた。