平安時代に貴族の遊技として愛好された蹴鞠(けまり・しゅうきく)は、江戸時代前期以降、信濃諸藩の家中や豪農層のあいだで流行した。寛文九年(一六六九)の俳書『一本草』春に「鞠かかり 四方めんなり 箱やなぎ 松本直頼」とあり、この時期に松本城下で蹴鞠が流行していたことがうかがえる。佐久郡野沢村(佐久市)の豪農瀬下敬忠(せじものぶただ)も享保年間(一七一六~三六)ころから天明期(一七八一~八九)まで蹴鞠に親しみ、松本城下や伊那などから名人をよんで自宅の鞠場(まりば)で蹴鞠を楽しんでいた。
明和期(一七六四~七二)になると各地に鞠場が設けられ、鞠大会もさかんにおこなわれ、蹴鞠流行のピークと考えられる。明和五年(一七六八)、佐久郡に所領をもつ三河奥殿(おくとの)藩の世子松平兵部少輔(ひょうぶのしょう)(乗友)が、大坂在番中に鞠をよく蹴る玉井民治なる若者を藩主の鞠指南として召し抱えている。明和六年(一七六九)十月、松代藩主真田幸弘が藩中の諸士を殿中に招いて蹴鞠を見物している。鎌原桐山が「蹴鞠 南篁(なんこう)先生曰(いわ)く、蹴鞠はその初めをしらず、岡島平治側役が祖父庄蔵、その弟某医者也、両人この技(わざ)をよくす、その後、老第下(だいか)(真田信安)東都の鞠目代富安千重郎なる者に学び給いてのち、藩中稍々(やや)盛りになりたり、鞠場、藩中にては、小山田子主膳(今の主膳父)と予(鎌原桐山)が家にありて、毎月日を定めて会あり、先考並びに小山田子主膳をはじめ、大夫・士、第下の御相手に出(いで)たる者多し、明和六年十月、藩中の諸士を殿中に召して拝見されし事などあり。この頃を極盛とすべし。その後次第に衰微して今は鞠場も玉川子左衛門(用人、高六〇〇石)方にあるのみ。ほかは廃したり、鞠を好む人も五、六人に過ぎず」(漫筆)と記しているように、明和六年ころが松代藩での蹴鞠の最盛期で、文化・文政ころにはしだいに衰退した。