囲碁の関山仙太夫

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囲碁(いご)は京都寂光寺(じゃっこうじ)の僧坊本因坊(ほんいんぼう)に居住した僧日海が本因坊算砂と称し、囲碁で幕府に仕え囲碁の家元となった。本因坊算砂は慶長十年(一六〇五)正月に松本藩主石川康長(三長)らへ碁石、真田伊豆守(信之)へ蒔絵箱を贈るなど、親交のあつさをみせている(『信史』⑳五九頁)。真田信之は囲碁の名手であり、本因坊とも対局し、家臣にも大瀬又右衛門ら打ち手がいた。

 関山仙太夫正義は松代藩士の目付の家に生まれ、祖父に囲碁の手ほどきをうけた。江戸に出て本因坊烈元(れつげん)の弟子となり、一七、八歳で初段になる。天保二年(一八三一)一二世本因坊丈和(じょうわ)と二目置いて対局し勝ったという(漫筆)。文化年中(一八〇四~一八)には松代藩内で藩医大草真長につぐ実力があった。竹林亭と号し、『囲碁方位初心階』・『同続初心階』・『初心者稽古碁集』・『聖賢囲碁妙手集』など初心者むけ棋譜(きふ)が多い。安政六年(一八五九)の『初心者稽古碁集』の巻頭には(読みくだしに改める)、「心得の事 一、石局中へ出る事 一、定跡を堅く覚え寄石立てて打ち替うべし、逃れて我流に出ずるべからず 一、怪しと思う処必ず手入るべき事 一、調子早やは徳有り、長き時は慾心強き仁なりと知るべし、一、負くるを悦ぶべし、勝つ時は我智を益すること少なし、(下略)」とある。負けるときは勝ったときより益があるというところに仙太夫の心得がうかがえる。

 嘉永七年(安政元年、一八五四)の「信州囲碁手合せ競(くら)べ」には、塩尻の白木助右衛門と勧進元(かんじんもと)になっている(『長野』一六三)。仙太夫七一歳のときである。この「信州囲碁手合せ競べ」には全部で二九〇人の棋士が載っているが、東前頭に善光寺小増金太郎・同中野浅次郎・松代大草玄樹・同鹿野外守(かのともり)、西前頭に松代八田芳三郎・綿内北村唯助らが記載されており(『信州の囲碁』)、武士だけでなく豪商・豪農層にも囲碁のたしなみが広がっていたことがうかがえる。