善光寺の年中行事

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古代・中世に形づくられた善光寺の年中行事は、長い年月のなかで消えてしまったものや、変容してしまったものもあろうが、おもな年中行事は、現在も連綿として受け継がれ、善光寺町民の暮らしと文化にも影響をあたえてきたと考えられる。

 ここでは、安永五年(一七七六)の「本堂日用行事控」(小林計一郎『善光寺史研究』史料編四三)と長野県民俗資料調査報告『信濃善光寺正月行事』などにより、江戸時代の善光寺の年中行事の様相をみていこう(表3参照)。

 表3 善光寺の年中行事
正月 元日。朝拝式。子(ね)の刻(こく)(午前〇時)に時鐘(除夜の鐘)をつきおわり、ただちに大鐘をつく。衆徒(しゅと)は素絹(しらぎぬ)五条、中衆(なかしゅう)は浄衣、妻戸(つまど)は猿衣にて本堂に惣出仕。中衆が念仏開始。このあいだ、衆徒が焼香。中衆の念仏がすむころ、白装束(しろしょうぞく)の堂童子(どうどうし)(中衆から出るその年の当番)が大勧進住持(貫主(かんす))を迎える。戸帳(とちょう)(図1参照)の開帳は平日のとおり。堂童子が如来(にょらい)と善光(よしみつ)像に焼香。つぎに堂童子が仏供(ぶつぐ)を如来に献じる。善光像へは次座(来年の当番)の堂童子が献じる。大勧進住持は控えの間で仏供をいただき退出。ついで衆徒・中衆・表役人(寺侍)が仏供をいただき退散。元日の午後は修正会(しゅしょうえ)(元日から七日間、田家の隆昌を祈る法会)。申(さる)の刻(午後四時ころ)衆徒が全員出て開帳。そのあいた、堂童子が大勧進住持と三老僧へ金剛杖をあたえる。堂奉行以下へは次座の堂童子が授ける。当番の衆僧や大勧進・大本願の御内衆・衆徒の弟子が参詣のときは、次座の中衆が金剛杖を授ける。諸参詣人へは堂童子の伴僧(ばんそう)があたえる。それが終わって戒壇入りの発願文(ほつがんもん)を唱え、金剛杖で戒壇を打つ。なお、金剛杖とは、勝軍(ぬるで)の木でつくった諸災消除・厄除けの杖である。
六日。明(あけ)六ッ時(午前六時ころ)、堂奉行両人立ち合いで御印文(ごいんもん)を堂童子と次座中衆へ渡し、夜五ッ時(午後八時ころ)両堂奉行が受けとり保管する。印文とは、開基善光(よしみつ)が親しく如来から拝授したもので、善光寺第一の宝印といわれる。現在はこの夜、本堂の賓頭瘻(びんずる)尊者像が座す台を人びとが綱で堂内を引き回す行事かある(おびんずる回し)。ほの暗い堂内を引き回すとき、尊者を抱く白装束の男性が尊者を左右前後、自由自在にあやつる。生き返ったかのような尊者を人びとはシャモジで叩くか、手で触れる。尊者はお釈迦(しゃか)様の高弟で、さまざまな病気を治すと信じられている。正月の寒い夜、堂内は歓声と熱気にあふれる。現在、毎年八月最初の土曜日におこなわれる長野の夏祭・びんずる祭で、シャモジをもって踊るのは、この縁による。
七日。七草会。七草会(ななくさえ)とは修正会結願(けちがん)の法要。つぎに御印文頂戴をおこなう。御印文は大きな牛王杖の先につけられ、まず如来の前で三ヵ所、善光・弥生像の前、つぎに善光の間の境で、東南西北の天地に向かって押され、ついで大勧進住持・大本願上人などの順で頂戴、終わって参詣人に中陣東の地蔵尊の南で頂戴させる。
九日から十四日まで、四ッ時(午前一〇時ころ)から堂奉行が無量寿法(むりょうじゅほう)(天下泰平の祈祷)を勤める。元日から十五日までのあいた、堂童子は麻の素絹を着用するが、十五日の未明両袖(りょうそで)を切りとり、御印文お返しのとき、大勧進と大本願へその袖を差し上げる。
十六日。御印文渡し。堂童子は御印文・鎰(かぎ)・諸道具を堂奉行に返納。とどこおりなく任務を終えた旨を大勧進に報告する。
晦日(みそか)。堂番人四人を大勧進台所へともない、納所(なっしょ)(台所係)に引き合わせる。二月は使用人の交替期なので、堂番人の給金七四八文を四人に渡す。その銭は過去帳金から出す。
三月 三日。上巳(じょうし)の節供(せっく)(桃の節供)。衆徒惣出仕。五・七・八・九月もこれと同じ。
三月十五日と十月五日は御会式(ごえしき)(本堂で法華三昧会(ほっけさんまいえ)という法会をおこなうこと)。寺内では、善光寺如来がここに遷座された日だといわれる。
六月 十三・十四日。祇園会(ぎおんえ)(後述)につき両夜、本堂南の向拝(ごはい)へ提灯(ちょうちん)二張出す。晦日(みそか)。盂蘭盆会(うらぼんえ)(食物を祖先の霊に供えて、冥福を祈る行事)。中陣妻戸の前へ太鼓・雲版(うんばん)・百万遍数珠(じゅず)を飾る。
七月 十五日。施餓鬼(せがき)(飢餓に苦しむ生類や無縁の亡者の霊に飲食をほどこす法会)。前日、幡(ばん)二流を駒返り橋にたてる。衆徒・中衆・妻戸など一山総出仕で水向け回向(えこう)(水を手向ける)などをおこなう。
十月 五日~十五日。本堂で十夜念仏法要。十夜仏は水戸藩士栗田氏が所有していた仏像で、善光寺本尊だといわれていた。五代将軍綱吉のもとで老中になった柳沢吉保(よしやす)のあっせんで、元禄五年(一六九二)善光寺に納められた。十五日、十夜仏閉帳。両寺役人立ち合い、十夜仏封印。
十二月 七日。妻戸の別時念仏開始(これは妻戸の時宗時代からの伝統行事で、特別の時日・期間を定めて称名念仏をすること)。二番目の申(さる)の日の夜。御越年式(ごえつねんしき)。如来が年越しをする所といい伝えられている歳神堂(としがみどう)に、善光寺 の奥の院といわれる上松の駒形嶽駒弓(こまがたけこまゆみ)神社から神馬(じんめ)(木馬)を迎えて如来が年越しをする行事。
二十六日。本堂の一年中の惣勘定をおこなう。油料は春の彼岸から秋の彼岸までの散銭(さんせん)(賽銭(さいせん))から毎日一〇〇文ずつはねておき、七月・十二月の二回に支払い、残金は本堂で預かる。紙料は毎日の散銭で支払う。たばこ銭は、毎日二五文ずつ散銭のうちから払う。
二十八日。煤(すす)払い。堂奉行が如来前の煤を払う。つぎに浄衣をつけ白布頭巾(ずきん)の冠をつけた堂童子が煤を払う。ついで堂童子が両寺へ祝儀にいく。このあいた、中衆が出仕して天井や諸道具の煤を払う。善光の間へは、大本願上人から道心一人、小者二人が出頭して煤払いをおこなう。そのさい、年中の本堂への納物と麻・真綿などを大勧進へ持参する。
晦日。夕七ッ時(午後四時ころ)、堂奉行二人が大勧進へ歳暮(せいぼ)の挨拶にいく。夜、堂童子へ鍵を渡す。内陣勤番所の行灯(あんどん)・灯明棚の油は、晦日から正月十五日朝まで堂童子が出す。午後六時過ぎ御影所のゴザ、散米振所のゴサなどを用意し、如来前などへ餅や昆布などをかざる。

(注) 『前掲書』のほかに、山ノ井大治「善光寺の年中行事」、岩下桜園『芋井三宝記』(『信史叢』③)を参照して作成した。

 表3からわかるように善光寺の年中行事は、年のはじめの正月と、年のおわりの十二月に集中する。このほか、一年中をとおして毎朝おこなうお勤めにお朝事(あさじ)がある。午前六時(冬は七時ころ)、まず大勧進貫主が善光寺本堂で御経を読み、十念を授ける。十念とは、導師が「南無阿弥陀仏」と唱えると、参詣の人びとがこれに唱和して「南無阿弥陀仏」と十遍まで唱えることである。大勧進のお朝事が終わると、午前六時半(冬は七時半)ころから大本願のお朝事が同じようにおこなわれる。お朝事を勤めるため、大勧進貫主や大本願上人が本堂へ上り下りするとき、参詣人は石畳の参道両がわに座って数珠(じゅず)をいただく。この習いはいまも受けつがれ、その光景は毎朝目にするところである。数珠をいただくということは、数珠で頭をなでてもらうことで、善光寺如来のお救いにあずかるということである(小林計一郎前掲書)。


図1 瑠璃壇内部図
(山ノ井大治「善光寺の年中行事」)


図2 本堂内略図  (山ノ井大治「善光寺の年中行事」)