善光寺町年寄役の年中行事

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善光寺町の町年寄役は善光寺役所の意向をうけて善光寺八町に触れなどを出し、八町の庄屋と善光寺宿問屋を統轄する重要なポストである。町年寄役には常時三、四人が任命されていた。嘉永四年(一八五一)十一月では、町年寄役に水科五郎右衛門・西条与五兵衛(徳兵衛)・藤井平内・中沢平作の四人が任命されていた(『長野市史考』史料編四四)。このうち、西条徳兵衛は文久三年(一八六三)の記録と考えられる「町年寄役年中行事并(ならびに)役用温古録」(『日本都市生活史料集成』⑨小林計一郎「解題」)を残しているので、これにより町年寄役の年中行事(表4)をみていこう。

表4 町年寄役の年中行事
正月 元日。早朝、大勧進へ登院、独礼で御目見えののち、大本願へ登院、独礼の御目見え。のち衆徒・中衆・妻戸・重役(寺侍)方を回勤し、三ヵ寺(西方寺・寛慶寺・康楽寺)・善光寺抱え医師・被官へも回る。二日。御謡(おうたい)初めのため登院。近年、この行事は省略。三日。大勧進重役へ年礼。四日。大本願重役へ年礼。五日。八町へ触れを出し、子供の七五三曳(しめびき)、墨塗り(顔などに煤墨をぬる行事)などについて猥(みだり)がましいことがないよう指示。七日。七草の行事で登院。近年、この行事はない。九日。松代へ重役とともに年頭の挨拶にいく。家老・郡奉行などを回勤。十日。西町の市神(いちがみ)祭につき、高張提灯(たかはりちょうちん)を貸す。十一日。御蔵開きのため社倉(しゃそう)へ出向く。このころ、日待ち行事のため登院。二十三日。初寄合につき午前一〇時ころ大勧進に出る。寺侍今井・中野・柄沢(からさわ)・山極(やまぎわ)四氏と同役四人・物書役(ものかきやく)・手付同心四人同座のもと、八町三ヵ村庄屋・宿役人などへ条目を読み聞かせ請印(うけいん)をとる。終了して雑煮(ぞうに)・吸い物・酒などが出る。
二月 十五日。店置き替え証文改め(借屋の取り調べ)。日割りは、二十日桜小路(桜枝町)、二十一日後町・新町(しんまち)・岩石町、二十三日横町、二十四・二十五両日西町、ニ十六日東町、二十八日大門町。
三月 三日。上巳(じょうし)の節供。麻上下(かみしも)で登院。このころ、大勧進住持の三社(湯福・武井・妻科神社)参詣がある。前もって通り道を見回り、見苦しい場所は注意しておく。
十五日。御会式につき登院。このころ、町回りをする。町回りに間にあうよう町々の家業帳を提出させておく。町の巡回は、およそ西がわの町々からの左回りである。北国街道(中央通り)を境に八町を東西に分ける。
五月 端午(たんご)の節供で登院。
六月 二日。今井氏(大勧進代官)から明三日御祭礼役所がある旨の連絡があり、八町三ヵ村庄屋・宿役人などへ通知する。三日。今井・中野・柄沢・山極の寺侍と町年寄役四人、書役・手付を呼びだし御祭礼役所の寄り合いで、「御祭礼につき諸国からの参詣の旅人にがさつなることがないように」庄屋・宿役人などへ申し渡す。土用入りから三日目に甚暑伺(じんしょううかが)いに登院。それから節供祝いのとおり甚暑見舞いとして回勤。七日。天王社へ高張を奉納。赤飯一重(ひとかさね)、西町玉屋喜右衛門から到来。十日。朝大踊り揃えの通知があり、午後六時に出席。十二日。町々の世話方などを一人ずつ呼び、明日の行列巡行の注意をあたえる。大勧進・大本願双方から桟敷(さじき)への招待がくる。御祭礼前のお伺いとして登院。十三日。行列巡行、夜、灯籠揃(とうろうぞろ)えがある。十四日。行列巡行、夜に入って大踊り行列がある。十五日。御礼をかねて登院。八町庄屋・組頭・世話方などが礼にくる。
七月 七日。七夕登院し回勤。麻上下、上巳の節供のとおり。十四日。本堂参拝、盆の寺参り、墓参り、親類の仏壇参り。十五日。施餓鬼(せがき)につき登院、回勤。このころ、宗門帳を年番で点検。後日、大勧進で全庄屋の立ち合いで宗門改めの儀式がある。昼時に赤飯が出る。二十六日。武井神社へ高張提灯を奉納。二百十日ころ、両御山の大峰山・旭山に松茸(まつたけ)が出るので山留め(立ち入り禁止)の旨の連絡があり、八町三ヵ村庄屋、宿役人、三ヵ寺、神主(斎藤家)へ通知する。
八月 九日。西町市神祭りにつき、高張提灯を借りにくる。ニ十日。祠堂金(しどうきん)の利子が割り納めになったので登院。
九月 九日。重陽(ちょうよう)の節供につき登院し、回勤する。
十月 立冬相場につき、松代藩役人が後町深美六之助方に出向き調べる。それにつき大勧進役所から連絡があり、米問屋・穀屋行事などへ通達する。立冬から一〇日間の白米・大豆・小豆相場を書き上げ提出する。また、飯山藩御用達(ごようたし)商人が奉行の書状を持参。書面に「鮮肴一尾(せんこういちび)進呈する」とあるが、じっさいには内山紙の進呈である。それへの返事も、「見事な御肴(おさかな)一折りいただきありがとうございました」と返書をする。町年寄が飯山藩御用達の止宿先へ出かけ「人馬が御入用でしたら遠慮なく御使用ください」と申しでる。先方の頼みによっては宿問屋へ手配する。
十一月 二十七日。年貢上納の金納相場がきまる。以前は十二月三日であったが、近年は十一月二十七日になった。決まり次第、大本願重役から御達しがあり、それを八町三ヵ村庄屋に回達する。
十二月 小寒(しょうかん)にはいっての三日目に登院。甚寒見回りとして回勤する。二十日。祠堂金割り納めの取り立てにつき登院。二の申(さる)の日。怛例の善光寺如来の年越し日であるので、八町三ヵ村庄屋・宿役人へ触れを出す。領外の善光寺町続き地の三輪・権堂・後町の三ヵ村へは最寄りの庄屋から、前後の宿場へは問屋をとおして、「如来年越しの日で夜番はないので、火の元を大切にするように」という触れを出す。十九日。大勧進手代中野氏から町年寄四人分の門松切手(引換券)をもらい、平柴村(安茂里)の請負人へ渡す。門松が配達されたとき、祝儀として一人分一五〇文ずつをあたえる。三十日。歳末の御祝儀として、大勧進・大本願へは昆布五本、酒二升ずつ、寺侍へは酒札(酒の商品券)を配る。

 

 右の表から、善光寺町年寄役は、善光寺大勧進と大本願、とくに善光寺領の政治を直接つかさどる大勧進と密接な関係にあることがわかる。それも正月から十二月までの一年中であり、正月と十二月に集中する。祭事からはじまって町政までの多忙な役職であることがわかる。