町民の暮らし

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善光寺町民の暮らしを「善光寺宿問屋小野家日記」(小林計一郎『長野市史考』史料編四五とその「解題」)などをとおしてみよう。小野家は善光寺大門町の草分けと称する旧家で、北国街道(大門町)が鐘鋳川(かないがわ)と交わる南西の角地にあった。図3は、天保五年(一八三四)当時の屋敷図で、表間口一四間余(二五メートル余)、奥行三一間余(五六メートル余)で、裏間口が少し広く一六間余(約二九メートル)であった。面積は約四五〇坪である。伝馬(てんま)役は北国街道に面する善兵衛が二ヵ月半、分家筋にあたる弥助が三ヵ月半、鐘鋳川に面する長右衛門が一ヵ月半、ほかで四ヵ月半を分担した。奥には小さな借家が八軒あり、裏店層(うらだなそう)と考えられる。天保五年というのは宿問屋専業の時期なので、おそらく小野家に関係する馬子(まご)たちが借家していたものと考えられる。


図3 小野家屋敷図  (『長野市史考』より)

 また、文政十年(一八二七)に出版された『諸国道中商人鑑(あきうどかがみ)』によると、小野家は玄関にあたる部分が瓦葺(かわらぶ)きの破風造(はふづく)りであり、二階が板葺き、一階が瓦葺きの堂々たる建物であることがわかる(図4)。正徳三年(一七一三)三月には、すでに善光寺宿問屋を世襲していたが、嘉永元年(一八四八)九月に酒のうえでの失敗で問屋を免職された。


図4 善光寺宿問屋小野善兵衛家
  (文政10年(1827)『諸国道中商人鑑』)

 「小野家日記」は、善光寺本堂が再建される二年前の宝永二年(一七〇五)から明治政府成立前年の慶応三年(一八六七)まで、一六三年間にわたって伊勢暦に書きこまれた略日記である。ただし、暦があっても書き込みのない年、また暦そのものが紛失してしまった年が多く、記事があるのは六六年にすぎない。最初、小野家は宿問屋だけでなく、農業・酒造・呉服商を兼ねた多角経営の宿場問屋であったが、宝暦三年(一七五三)以降は、呉服の棚卸し記事がなくなり、同九年以降は酒造記事もなくなる。また、文化四年(一八〇七)以降は農業記事もなくなるが、宝暦十年から文化四年までの四七年間の暦を欠くので、宝暦十年から文化三年までのあいだに農業経営はなくなったと考えられる。

 ここでは、「小野家日記」がはじまる宝永二年と、問屋専業期間で右にみた屋敷図の載る天保五年の記事についてみよう。そのさい、小野家内部の記事と小野家が所属する善光寺八町などの記事とにわけてみることにする。

 まず、宝永二年の記事のうち、小野家に関するものをみていく。正月七日に六代目善兵衛の妻が死去し、仏光院教誉栄順大姉(だいし)の法名が贈られた。例年十二日におこなっている日待ち行事を延期したが、二十一日に祈祷(きとう)なしでおこなった。二十五日には、松代の親類筋にあたる小野家へ年始におもむく。二月三日には、初代善兵衛清光院の一三三回忌の法要を西町西方寺で営み、長老二人、小僧三人、飯山の西川名左衛門、松代の小野九郎左衛門・小三郎・与次右衛門・岡村喜兵衛・原伊右衛門・深沢新右衛門、川田の西沢文右衛門を招いた。この日、店の武右衛門は呉服物を仕入れに京都へのぼり、三月十一日に帰着した。十三日には味噌煮(みそに)をおこなった。十六日に、三間と四間半の物置蔵ができあがった。四月五日に田植え、十六日に木綿蒔き。二十六日に男子が誕生したが、ことのほか柔弱で二日後の正午ころに死去した。六月二十二日に大根蒔(ま)き、七月六日に麦蒔き。岡村喜兵衛の孫が誕生し、頼まれて源五郎と名づけた。七月七日に醤油(しょうゆ)を、八月三日に秋味噌を仕込んだ。八月五日に酒の元入れをおこない、屋敷内にある酒造の鎮守松尾大明神を武井神社の斎藤神主を招いて祭り、赤飯を供した。二十三日には、酒の初上げをおこなった。九月三日から稲刈り、七日ころから大麦を蒔いた。これは例年より二、三日おそい。十月九日から大根をとった。十二月十三日に煤(すす)払いをおこない、正月を迎える準備をはじめた。

 八町のできごとをみていくと、二月三日に中沢源五右衛門が善光寺町の町年寄に就任した。五月一日、西之門町の弥平が出火元で上西之門町・両寺中・東之門町・岩石町などまで焼失した。四月二十五日ころから晴天になり、六月三日に夕立がはげしく降った。善光寺本堂の普請がおおよそできた。六月二十三日、横沢町代官の竹原又右衛門が自宅に火をつけられ、あわてふためいたため焼死した。

 つぎに、天保五年の記事をみる。この年は、天保飢饉(ききん)の最中であった。正月十日、例年のように戸隠山使僧が松代表へ挨拶のためくだってきて、小野家で昼食をとる予定であったが、天候が大荒れであったため、宿泊もした。この記事を除くと、あとはすべて善光寺八町や天保飢饉などに関する記事で埋まっている。

 元日、大門町の山屋喜平衛、西町越前屋権七が大本願の被官に就任した。二月三日に、東町武井神社で五穀成就のための神楽執行(かぐらしっこう)を六月におこなうことを決めている。三月三日、大勧進・大本願両寺役人に節供(せっく)御礼、四日には西条徳兵衛が町年寄本役となる。十三日、大勧進住持が湯福・武井・妻科の三社を参詣した。十八日には大本願上人身内の田村雄之助が手代見習を仰せつかった。二十三日、富山藩の若殿前田利保が宿泊した。四月五日には御祭礼のときの町廻り馬の改めがあったが、不景気のため酒宴はおこなわれなかった。(中略)十九日に加賀藩一三代藩主前田斉泰(なりやす)が通行。二十五日に御蝋荷(ごろうに)が泊まる。五月二十七日には中沢麻次郎宅で旅人が死去し、東町康楽寺に埋葬。六月十三日、御祭礼。福井藩家老本多内蔵(くら)が通行。伝馬人足五〇人の要請があり、問屋小野家に金二〇〇疋(金二分)の目録が下付された。七月、白米が一〇〇文につき六合五勺から七合売りとなった。当年はことのほか暑く豊年と考えられた。十日に佐渡の金銀が通行。二十二日には米相場が下がり、一〇両に籾四二俵ほどとなった。小売値は一〇〇文につき一升。両替相場は金一両につき銭七貫文となった。七日には小売値が一〇〇文につき一升一合となり、両替相場は六貫八〇〇文となった。酒値段は追いおい上がり、一升三五〇文から四五〇文となり、油は四五〇文となった。(中略)十二月六日、松代藩が前年産物会所をつくり、領内産物の統制保護をはじめたため、善光寺町の経済は火が消えたようになった。そのため、この件につき東町庄屋彦三郎などが惣代となって、出訴のため江戸におもむいた。


写真19 宝永2年(1705)伊勢暦に書かれた「小野家日記」  (県立歴史館蔵)

 右のように、小野家に代表される善光寺町民は日々を過ごしたのであるが、なんといっても小野家はごく少数の上層町民に属し、表店(おもてだな)層であり、大屋(おおや)(持地)であった。善光寺町という都市空間には、同時に多数の地借(じがり)や店借(たながり)と数は少ないが屋代(屋守)もいた。大屋とは、貸家をもっているかどうかには関係なく、自分の屋敷地に自分の家があるものをいう。地借(借地)は借地してそこに自分の家をもつ人であり、店借(店・借家)は借家人である(『市誌』③四章一節一項)。屋代とは、地主から委託されて、地借・店借を管理し、地代や店賃を集める差配人である。地主から土地を借り、自分で家屋を建てる地借でもあり、別に自分の家業をもっていた。たとえば、弘化五年(嘉永元年、一八四八)三月の「善光寺西町家業改帳」(『県史』⑦一二五二)をみると、大屋西方寺の屋代として煙草商万七がおり、万七の差配する店借に小商売(こあきんど)紋吉・小作稼ぎ源左衛門・店奉公秀太郎・左官職喜代八がいた。店借層や地借層がどのような生活を送っていたのか史料を欠くが、おそらくそれぞれの家業につきながら、その日暮らしの生活を送っていたと考えられる。これら屋代・地借・店借層の存在は西町のみの現象ではなく、ひろく善光寺八町にみられるものであった。

 いずれにしろ、善光寺町民は、大屋層も屋代層も地借層も店借層も、宝永二年の火事など何回にもわたって起きた火事(『市誌』③四章一節)に遭遇する。寛保二年(一七四二)の戌(いぬ)の満水では、前代未聞の大満水となり(九章一節参照)、湯福(ゆぶく)川の水は善光寺町にあふれでた。文政八年(一八二五)の大凶作の翌年には貧民層の不穏な動きがあり、「騒動を企てるぞ」などの張札(はりふだ)が張られた。天保飢饉では、松代藩の穀留め令と重なって領内は食糧に窮した(九章二節参照)。また、弘化四年(一八四七)善光寺大地震では壊滅的な打撃をうけた(九章三節参照)。安政六年(一八五九)には、越後表からコロリ病が入った。町民はこのようにつぎつぎと直面する事件をくぐり抜けながら明治維新を迎える。