水内郡問御所(といごしょ)村(鶴賀問御所町)の豪農商久保田新兵衛は、慶応三年(一八六七)十月、越後椎谷(しいや)藩六川陣屋(小布施町)へ倅(せがれ)菊太郎の縁組許可を願いだした(『久保田家文書』県立歴史館蔵)。相手は、松代領花尾村(小川村)の郷士(ごうし)大日向司(つかさ)の娘である。当時、問御所村は、松代領妻科村後町組(西後町)・新田組(新田町)・石堂組(南・北石堂町)などと並んで、善光寺町続き地のひとつであり、善光寺町の人びととさかんに交流していたので、ここでの婚礼の様相は善光寺町でのそれと考えてよいであろう。ただし、これはあくまで上層町民の例である。中下層民の史料は見いだせない。
この縁組願は許可されたものとみえて、翌十一月二日から婚礼に関する一連の行事が六日の里帰りまでおこなわれた(表5参照)。まず、二日、善光寺町内外から一〇〇人が招待されて見立てがおこなわれ、ついで婚礼儀式がおこなわれた。三日の朝は、前日招待された人びとなどの内方(奥方)が御茶に接待され、その日の昼・夜はともに旦那衆(殿方)が接待されている。四日は婚礼から三日目にあたる祝事として三つ目行事(嫁披露)がおこなわれ、朝には内方たちが、晩には大勧進代官・権堂村名主ら善光寺町内外の名だたる人たちが招かれている。当日、大勧進住持・大本願上人、両寺に仕える役人、六川陣屋の寺島善助、松代藩士山寺源大夫らに赤飯一重(ひとかさね)などが配られた。六日には、花嫁が里帰りで実家に帰り、婚礼の全儀式は終了した。
この婚礼にさいして、招待された人びとはもちろん、日ごろ血縁・地縁、あるいは取り引きでつながる人びとが祝儀の金品を寄せた。慶応三年十一月吉日の「婚姻祝儀受納控」(表6)には、善光寺大勧進代官上田丹下(たんげ)・今井磯右衛門両人の金二〇〇疋・末広(扇子)一対をはじめ天保銭一枚にいたるまで、町内外二七一人の名前と寄せられた金品が記入されている。
いっぽう、娘を嫁がせるようすを、文久元年(万延二年、一八六一)九月の善光寺西之門町(西ノ門町)藤井家の娘於廉(おれん)の場合でみていこう(『藤井家文書』)。於廉の嫁ぎ先、婚礼の儀式・日付などの詳細は不明であるが、持参品は表7のとおりで約一三〇点の多種類におよび、内容はきわめて豪華なものであった。
そのため、藤井家では善光寺町内外の店から呉服物・調度品などを買い入れている。善光寺町外では、遠く京都問屋町通り御池下(おいけさが)ル日野屋伝兵衛、海老(えび)屋正左衛門取り次ぎで江戸の炭屋彦兵衛、近くでは松代木町坂屋賀助、同木町駒屋、同紺屋町紙屋藤助、更級郡稲荷山宿(千曲市)唐津屋重蔵、水内郡相ノ木(あいのき)(三輪)福島屋など。町内では、松坂屋秀太郎・紀州屋彦兵衛・つちや元助・古着屋佐兵衛などからであった。