祗園(ぎおん)祭といえば、だれしもが京都八坂(やさか)神社(祗園社)のそれを第一にあげるだろう。八坂神社の社伝によると、貞観(じょうがん)十一年(八六九)六月、全国にわたって疫病の流行があり、その原因に素戔嗚尊(すさのおのみこと)と同体と考えられた牛頭天王(ごずてんのう)の祟(たた)りをあげる。その祟りを鎮めるために六六本の鉾(ほこ)を立ててこれを祭ったことが祗園祭の由来だといわれる。
ここに登場する牛頭天王とは、疫病をおこす神として恐れられた。そのため、かえって大切にされ、人びとの信仰の対象とされるようになった。祗園祭がおこなわれる旧暦六月は真夏であり、疫病が流行する時期でもあった。村々では、農作物の害虫に悩まされはじめるころであったので、疫病や災害除(よ)けの夏祭りとして、祗園祭が全国的におこなわれるようになった。信濃においても、起源はまちまちであるが、善光寺町をはじめ須坂・松本・岩村田・鬼無里・松代・中野などの町や村でおこなわれるようになった。
善光寺町の祗園祭の起源については、どこまでさかのぼりうるのかはわからないが、おそらく室町時代あるいはそれ以前に始まったものと考えられている。神事として疫病神除けの祭りの要素をもち、六月十三・十四両日におこなわれた(小林計一郎『長野市史考』、小林計一郎・依田康資『長野御祭礼史』、以下両書に負うところが多い)。善光寺町の祇園祭の次第を文久二年(一八六二)正~十二月の九社神主斎藤家の「年中行事録」(『市誌⑬四七二』)などでみよう。
①天王おろし 五月二日、妻科村の聖徳宮(しょうとくのみや)(長野県庁北がわ)に、花鉾(はなほこ)は立町(たつまち)の徳武源五左衛門から、榊(さかき)は藤屋喜兵衛から、餅は山屋喜兵衛から、ちまき草は大本願上人から、それぞれ届けられる。四日には、善光寺院坊のひとつ兄部坊(このこんぼう)から天王社幣帛紙(へいはくし)として杉原(すいはら)紙五枚が届けられる。同日午後六時ころ、斎藤神主が妻科村役元(名主)へ「天王様」の傘鉾(かさぼこ)を持参し、同役元立ち合いのうえ、村人が聖徳宮のかたわらにある大木に登り、その傘鉾を大木にとりつけた。そこに神が降りるのである。斎藤家では、五月いっぱいかかって天王社の御幣(ごへい・おんべ)をこしらえる。大札五〇枚、仙原二〇枚、小右衛門大札八〇〇枚などである。
②「天王様」旅屋移り 六月一日、斎藤家は大勧進役所へ出向き、「天王様が天王社に降りている期間、七日から十四日まで、例年どおり八町へ人足を一人ずつ出すように御命令ください」と願う。通常、天王社には神がおらず、この期間のみ神が降りる、と考えられていた。このような社を旅屋(たや)という。七日、斎藤氏は御幣をもって、大勧進・大本願、ついで両寺の代官家を回り、終わって御幣を天王社に安置する。
③疫神斎 九日昼、天王社では神楽(かぐら)を献じる。夜は仲間の神主四人を頼んで疫神斎(えきがみさい)をおこなう。翌日、疫神斎の御幣を大勧進・大本願・三寺中(衆徒(しゅと)・中衆(なかしゅう)・妻戸(つまど))・役家・町々役元へ配る。祇園祭が疫病除けの祭りの色彩を残していることを示す好材料である。
④祭礼大将の任命 大勧進は天王が旅屋に移る六月七日、祭礼大将を任命する。それには、だいたい寺侍(てらざむらい)や被官(ひかん)(『市誌』③三章三節参照)やその子息があたる。六月七日か八日に大勧進から松代藩に使者を送り、六月十三・十四両日に祇園祭をおこなうことを届ける。松代藩は善光寺領の外護(げご)権をもっていたからである(『県史』⑦四〇一)。以上のような諸準備をしたうえで、六月十三・十四両日を迎える。
祇園祭の中心は何といっても善光寺八町と後町村(西後町)の出し物の巡行である。巡行は、善光寺八町などを北国街道(中央通り)で東西二つのグループに分けたうえで、かならず西がわの町からおこなわれた(括弧内は各町の出し物)。
西がわの町-西桜組(西之門と桜小路)(馬乗り)・西町(屋台)・阿弥陀院町(栄町)(屋台)・下西町(屋台)・天神宮町(長門町)(屋台)・大門町(舞台・鉾)・松代領後町村(屋台)
東がわの町-東之門町(馬乗り)・横町(傘鉾)・岩石町(屋台)・東町(屋台)
巡行を始めるにあたり、大勧進・大本願両寺の寺侍が西之門町へ出向いて諸注意をあたえる。ついで、寺侍は御霊屋(おたまや)小路(西之門から仁王門へ出る道)から敷石通り(元善町)へ出て、山門の石段の上に席をかまえる。西がわの町の行列は寺侍に巡導されて山門の下まで行き、そこで「式」をおこなう。「式」とは一定のお囃(はやし)をおこなうことだといわれている。そののち、町内巡行に出るが、行列の先頭は先乗りといわれ、これについで西桜組・西町の順で出発する。西方コースでは、「人丸」が乗る西町屋台が先頭をつとめる。これを先車(さきぐるま)と称した。町内巡行のコースは時代によって変更があったが、天保三年(一八三二)のコースはつぎのとおりであった。
西之門-御霊屋小路-敷石通り-山門-上西之門-西之門-西横町-仁王門-大門町広小路入口(折り返し)-東横町-東之門町-伊勢町-岩石町-東町-権堂-後町-大門町-上西町-阿弥陀院町(折り返し)-西町角(流れ解散)
いっぽう、東方コースはつぎのとおりであった。
仁王門北(玉照院前)-敷石通り-山門-上西之門-西之門-西横町-仁王門-大門町-大門町広小路入口(折り返し)-あとは西方のコースと同じ。
右のコースで注目すべきことは、幕府領の権堂村(天保二年以降は松代藩預かり所、鶴賀権堂町)と松代領の後町村を通ることである。このことは、両村が善光寺町続き地として実質善光寺町の一角を形成していることを意味する。生活・風俗・文化など諸点で善光寺町と共通するものがあった。大勧進と大本願の御門前である横沢町・立町が祇園祭礼に参加したのは明治期であり、問御所・新田・南北石堂・千歳・緑の長野市南部の町々が参加したのは大正期であった。両日、屋台などの巡行を見ようと、近隣諸村から人びとが集まった。「小野家日記」の宝暦三年(一七五三)六月十三・十四日の条に、「御祭礼、下筋より旅人群集」とあることからもうかがえる。
六月十三日の夜には灯籠揃(とうろうぞろ)えがある。その盛大なようすを大正十四年(一九二五)刊行の『長野市史』は、つぎのように表現している。「灯籠とは町内各戸、長方形の田楽灯籠を竿頭(かんとう)に貫きて、軒先に立てて献灯としたるを一同持ち寄り、町々の順序を立て、先頭に鼓(つづみ)・笛の囃子方(はやしかた)をやり、庄屋・組頭等これに続き、総灯籠これに次ぐ。かくのごとき行列にて、まず山門下より天王社などに至る。灯数多くして何時(いつ)たゆるを知らず」と。
十四日夜には大踊りがおこなわれた。大踊りは里人が黒い木綿の衣を着て踊ったといわれているが、慶応四年(明治元年、一八六八)廃止された。大踊りには歌あげが付属しておこなわれた。『長野市史』は、歌あげについてこう記している。「十四日の夜、これを挙行す。場所は如来堂・天王社・両寺(大勧進・大本願)物見前等なり。(中略)当夜は其(その)場所に八町庄屋・宿役人」などが集まる。つづいて「大門町大屋一同、太鼓二人(東町より)、笛一人(後町より)、鼓一人(岩石町より)、鉾持(ほこもち)(箱清水村より)一人、歌うたふ人々は、皆杖(つえ)をつきつつあるき」と。
このように祇園祭の行事は、六月十四日の歌あげで終了する。翌十五日、八町役人などが代表して大勧進に御礼をして祇園祭は終了する。祇園祭はよほどのことがない限り毎年おこなわれたが、天保八年(一八三七)の飢饉(ききん)のときは、西町・阿弥陀院町では屋台は町内入口に飾っておき、町印(まちじるし)と鉾一本を差しだすというように行事が省略された。また、弘化四年(一八四七)の善光寺大地震のときは、天王社の祭りがおこなわれただけで、行事はいっさい中止となった。
祇園祭は六月十三日・十四日とわずか二日間ではあったが、数台の屋台の引き回しなどがあり、その費用には莫大なものがあった。費用捻出のため、桜小路では六月四日に町祭礼寄り合いがあり、十八日には祭礼費用をとりたてた。大屋二〇〇文、表店(おもてだな)一二四文、中店九〇文、裏店六〇文、寡婦一六文であった。弘化三年、天王金貸し付け元高は一〇六両一分であり、この利金が一四両三分であった。