御柱(おんばしら)祭といえば、諏訪大社が有名である。諏訪大社の上社(前宮と本宮)と下社(春宮と秋宮)の四隅に巨大な樅(もみ)の自然木の柱が建てられている。これは申(さる)と寅(とら)の年に建てかえられる慣習であるが、このため諏訪地方の氏子が総動員される。木落とし・川渡し・木遣(きや)り音頭の競演があったりする。当日は、遠近からの見物衆でにぎわう。巨大な自然木の柱は、神霊降臨のためのよりしろだといわれているが、いろいろな説がある。
善光寺町の御柱祭は、万延元年(安政七年、一八六〇)の武井神社のものが最初だといわれている。この年、問御所村(鶴賀問御所町)の豪農商久保田新兵衛の寄進により同社の本社拝殿が、田町の倉蔵の寄進により鳥居が建てられた(「小野家日記」)。この年の祭礼のようすは、現在、同社拝殿に掲げられている「御柱祭行烈(列)図」でわかる(口絵)。図によると、東町を先頭に、後町(東後町)・田町(三輪)・権堂村(鶴賀権堂町)・上下宇木村(三輪)・問御所村(鶴賀問御所町)・大門町・横町・伊勢町・岩石町・東之門町・七瀬村(鶴賀七瀬)の一二町村がおのおのの出し物をつくり、それを大勢の人びとが曳(ひ)いていく。地元の東町の大部隊につづく問御所村も五〇人ほどの大きな行列であり、権堂村の行列は、最初に威儀をただした上下袴(かみしもはかま)姿の男たち一七、八人、そのうしろに右片袖(かたそで)脱ぎの手児舞(てこまい)姿の水茶屋の女性らしきが一九人ほどつづき、鼠(ねずみ)や犬・猫などの七、八人の仮装姿がそのあとにつづいて車を曳いている。車の上の出し物は、小山に木が真っすぐ上に生えた見事なものである。武井神社にはこのほか、大正十五年(昭和元年、一九二六)五月と昭和六十一年(一九八六)六月の御柱絵馬が拝殿に掲げられている。
善光寺町以外では、小島村(柳原)の水内坐(みのちにいます)一元神社が神社号允許(いんきょ)を記念して(『町村誌』北信篇)と思われるが、安政二年四月に御柱祭をおこない、現代までおこなわれている。また、箱清水村(箱清水)の湯福神社でも幕末からおこなわれたという。明治期以降、湯福・武井両神社と建御名方富命彦神別(たてみなかたとみのみことひこかみわけ)神社(城山旧県社、水内大社)・妻科神社の四社が順番に御柱祭をおこなっている。最近では、平成十年(一九九八)五月に建御名方富命彦神別神社でおこなわれている。そのほか、南長池(古牧)の長池神社、東和田(古牧)の和世田(わせだ)神社など多数の神社で御柱祭がおこなわれているが、いずれも明治期以降である。
長野市域外でも、先にのべた諏訪の御柱祭をはじめ、北信第一といわれる小川村の御柱大祭など、県内各地で御柱祭がおこなわれている(『長野』九三・一六四号)。