文人墨客の善光寺参詣

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善光寺は古代いらいの名刹(めいさつ)であったから多くの文人墨客(ぶんじんぼっかく)の参詣があり、それを迎える地元に文人たちが育った。仙台の俳人大淀三千風(みちかぜ)が、天和(てんな)三年(一六八三)に仙台を出て貞享(じょうきょう)三年(一六八六)三月末に善光寺へ到着し、「日野屋なにがしが亭につく。まず数珠(じゅず)とりて、その名も高き仏日の善き光りある御寺の境内繁々たり」(『日本行脚文集』)と善光寺境内の賑わいを記している。五日ほど滞在し、戸隠参拝後、北国街道を江戸へ向かった。

 貞享五年(元禄元年)、松尾芭蕉(ばしょう)が門人越智越人(おちえつじん)をともなって木曽から信濃にはいり、姨捨(おばすて)で観月し、善光寺参詣を終えて八月下旬に江戸に戻っている。このとき善光寺を詠んだ句が「月影や四門四宗も只一つ」(『更級紀行』)である。当時はまだ芭蕉の門人は信濃にはおらず、地元の文人らとの交遊がみられない。この句碑は江戸時代の後期に何丸(なにまる)の子尺木堂によって現城山公園のなかに建てられた。


写真23 芭蕉句碑  (城山公園)

 正徳五年(一七一五)、越後高田(上越市)の俳人摩詰庵雲嶺(うんれい)が、伊勢山田の神官で芭蕉門人の岩田凉菟(りょうと)とともに善光寺を訪れている。善光寺では岡田未格(みかく)の家に寄り、凉菟が「そのまことあらはす色や春の山」、如来堂に詣でて雲嶺が「生で花に此内陣ぞ有がたき」(『笈(おい)之若葉』)と詠んでいる。岡田未格は善光寺町での初期俳人である。

 享保六年(一七二一)の春、名古屋の芭蕉門人沢露川(ろせん)(市郎右衛門)が弟子とともに北陸を巡って善光寺に向かった。善光寺の大門に立って四方をみて「此は寒からず暑からず九品(くほん)の勝地、まのあたりと拝伏して 草花の台(うてな)は広し善光寺」(『北国曲(ほっこくぶり)集』)と詠んでいる。享保十六年、五九歳の歌僧似雲(じうん)は、竹淵(たけぶち)(松本市寿)の三井武勝らとともに姨捨山や善光寺・戸隠参詣の旅に出た。善光寺では常智院や大門町亀屋五郎兵衛方に宿泊し、堂塔仏閣に参詣し日の出の開帳を見ている(僧似雲・三井武勝『更級紀行』)。

 俳人・国学者として著名な建部綾足(たけべあやたり)は、安永二年(一七七三)に妻きつをともなって旅に出た。同年四月、大門町の「末之止」(旅宿駒屋、俳人戸谷遠左(とやえんさ))に宿泊した。「此あるじハことに心しりて侍(はべ)りけるに、いつまでもあれとて、あたらしく作りたる高どののひとまを、我々にすませけるほどに、うはべなきあるじにあれバ我すらかあるじのことも宿りたりける 綾太理(あやたり)、真心の深くしあれバ草枕旅の宿りと思ハざりける 沖都(きつ)」(『東の道行ぶり』)と歓待をうけた。帰途、松代の俳人桂山(けいざん)の招きにより松代に立ち寄り、松代の豪商八田其明(きめい)(嘉重)や麦鳥(ばくちょう)などと交友している(矢羽勝幸『江戸時代の信濃紀行集』)。

 寛政八年(一七九六)、上州高崎の俳人生方雨什(うぶかたうじゅう)が、姨捨の月を埴科郡下戸倉(千曲市)の宮本虎杖(こじょう)らと観賞後、更級郡御幣川(おんべがわ)村(篠ノ井)の西沢黛山(たいざん)の案内で、松代・川中島古戦場をめぐり、善光寺門前で一泊し、戸隠参詣後ふたたび善光寺から北国街道を帰途についた。

 善光寺へは女性も多く参詣した。長門国長府(ながとのくにちょうふ)(山口県下関市)の田上菊舎尼(に)は、安永九年(一七八〇)に美濃国の俳諧(はいかい)師匠朝暮園傘狂(ちょうぼえんさんきょう)のもとへ女ひとりで俳諧修業の旅に出た。師匠のもとで数ヵ月の滞在後、奥羽へ芭蕉の旧跡を訪ねる旅に出た。その途次、善光寺へ参詣している。奥羽から江戸へ出て俳諧師らとの交友をひろめ、ようやく故郷へ帰ったのは五年振りのことであった(『手折菊一 花の巻』・上野さち子編『田上菊舎全集』)。

 天保十二年(一八四一)、筑前(ちくぜん)国底井野(そこいの)(福岡県中間市)の商家の主婦小田宅子(いえこ)は伊勢参詣後、足をのばして善光寺へ向かった(『東路日記』『福岡県史』近世研究編 福岡藩 三)。同十三年、下総(しもうさ)国松戸(千葉県松戸市)の名主の母大熊次女は、四五歳のとき、従者を連れて秩父(ちちぶ)巡礼および善光寺参詣の旅に出た。夫の没後五年のことだった。三五日間の旅の記録を『秩父道中覚』として書き留めている。

 安政六年(一八五九)の二月、常陸(ひたち)国錫高野(すずたかの)村(茨城県桂村)の寺子屋師匠である五四歳の黒沢ときが京都へ旅立った。草津をへて三尺以上の積雪の渋峠を越えて善光寺へ向かった。ちょうど善光寺御開帳の最中で老若男女(ろうにゃくなんにょ)が「あたかも蟻(あり)の群がる」ようであった。文久二年(一八六二)四月、山形城下(山形市)に住む商家大坂屋治右衛門の母豊が、六〇歳を記念し、善光寺参詣ののち、江戸をまわり約二ヵ月半の旅を楽しんだ(『善光寺道中日記』)。同年、出羽(でわ)国本荘(ほんじょう)(秋田県本荘市)の商家の妻今野いとは、伊勢参詣を急に思い立ち、途中で善光寺参詣をしている(『参宮道中諸用記』、柴桂子『近世おんな旅日記』)。善光寺へ旅する女の多くは五〇歳を過ぎての旅立ちであった。また男の旅にしばしばみられる飯盛女(めしもりおんな)たちとの戯(たわむ)れや乱痴気騒(らんちきさわ)ぎはなく、純粋に旅を楽しんでいるものが多い。