儒学者で尾張藩校明倫堂(めいりんどう)の督学(とくがく)(学事監督者、校長)にもなった塚田大峯(たいほう)は、善光寺町医塚田旭嶺(きょくれい)の四男として生まれた。父旭嶺は、江戸で室鳩巣(むろきゅうそう)・新井白石(あらいはくせき)らに学んだともいう儒学者であり、町医のかたわら善光寺大勧進医師もつとめた。著書に『桜邑(おうゆう)閑語』、『詩文捷法(しょうほう)』などがある。なお冢田(つかだ)が正字のようであるが塚田で統一した。
塚田大峯は通称多門、名は虎、大峯・雄風と号した。長兄は夭折(ようせつ)し、二男明は松代藩士宮下家をつぎ、剣術・漢学・数学などに通じて名をなし、三男道有(どうう)は医業をつぎ、末弟は比叡山の僧となり歌人でも著名な慈延(じえん)である。一茶の「父の終焉(しゅうえん)日記」によれば、一茶は父の看病にあたり、道有の診療をうけている。
大峯は安永四年(一七七五)、三一歳のとき『解慍(かいうん)』という儒学注釈書を書き、のち尾張藩儒細井平洲(へいしゅう)に認められ、尾張藩に招かれた。寛政二年(一七九〇)の朱子学のみを正学とする寛政異学の禁にたいして、大峯は上書し、「武術においても医術においても、各流派がならびおこなわれることにより、その技も進歩し、それぞれ世の役に立っている。学問だけを一流派に統一しようとするのは、その進歩を阻止するものである」(中村真一郎『頼山陽とその時代』)として猛烈に反対した。
文化七年(一八一〇)春、松代藩家老鎌原桐山(かんばらとうざん)は藩儒西沢茂台(もたい)を通じて、「塚田先生」へ七言律詩や五言絶句などの詩文を依頼している(漫筆)。鎌原桐山にとっても大峯は「先生」として尊敬すべき存在であった。大峯は文化八年、六八歳で尾張藩藩校明倫堂の督学となり、自註の儒学の本を教科書として講義した。寛政(一七八九~一八〇一)から文化・文政期(一八〇四~三〇)にかけての大儒学者であった。大峯の著書には、『聖堂合語』・『大学国字弁』・『聖堂弁物』・『戦国策略註』・『学語』・『随意録』などがある。
慈延は、天台宗を修めて智識と改め、京都の円教院住職となり、のち洛東(らくとう)の岡崎村(京都市左京区)の明真寺(みょうしんじ)に隠遁(いんとん)し、和歌を冷泉為村(れいぜいためむら)・為恭(ためやす)に学んで、「博文多識その詠風にも自ずから風致あり」といわれ、天明・寛政(一七八一~一八〇一)のころ僧澄月(ちょうげつ)・伴蒿渓(ばんこうけい)・小沢蘆庵(ろあん)とともに京の和歌四天王に数えられた。供養法華塔は善光寺本堂裏にある。慈延の供養のために、慧光尼(えこうに)なる女性が、法華経を一石に一字ずつ書いて埋めてこの塔を造立(ぞうりゅう)したのである。慈延の作歌には「よしやかのしをりたづねて弥高(いやたか)の山と言(こと)のはふみな迷ひそ」などがあり、編著には『過雲亭宴会記』、『鄰女晤言(りんじょごげん)』、『慈延和歌聞書』、『二十一代集概覧』、『堀川院初度百度集』などがある。善光寺に今井柳荘(りゅうそう)・小野斧木(ふぼく)、善光寺塔中(たっちゅう)の慈雲・慈眼・順海など歌人が出たのは、慈延の影響によるもので、清水浜臣(はまおみ)門下の岩下桜園(おうえん)とともに善光寺歌壇の大御所であった。