善光寺境内の碑文

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善光寺境内には、善光寺にゆかりのある文人らの頌徳碑(しょうとくひ)がたくさんある(小林済『善光寺之碑文集』、長野市教育委員会『長野市の石造文化財』①~⑤)。蕉風(しょうふう)俳人器随坊元水(げんすい)の墓は一山墓地にある。「宝暦十年正月十四日、咲は散る合点は爰(ここ)ぞ梅の花 春に百千音静かなる迎舟 辞世 五いろのかりやす染をぬき捨ててすたすた坊主弥陀(みだ)の浄土へ」と刻まれている。元水は、刈萱山(かるかやさん)西光寺(北石堂町)の芭蕉句碑に四五人刻まれた俳人名のなかにも名があり、活躍していたらしい。江戸の俳人で松代藩主真田幸弘(ゆきひろ)(俳号菊貫(きくつら))と親交のあった雨夜庵亀成(きせい)と二世雨夜庵菊堂の供養碑が本堂裏にある。「満る時落ちて見するや草の露」(亀成)の句を、松代藩士で雨夜庵菊堂の門人菊彦が記している。

 僧徳本(とくほん)の南無阿弥陀仏碑は文化十三年(一八一六)に建立されたもので、本堂西にある。念仏行者徳本の独特の字体による念仏碑はほかにも多い(一〇章四節参照)。

 眼科医で書家馬島禅長と子元長の筆塚が、塚田大峯の撰文で刻まれている。禅長は安棲、号犀川(さいせん)。元長は字(あざな)貞幹、号獅石で、ともに大勧進医師であり書や詩文をよくした。この碑は禅長の孫の親長が、その祖父と父の遺品を埋めてこの筆塚を造立(ぞうりゅう)したものである。碑陰記は後出の岩下桜園(おうえん)で、その書は坂木代官男谷燕斎(おたにえんさい)である。

 本堂東に高さ二メートル七〇センチメートルもの自然石でできた筆塚がある。弘化二年(一八四五)に門人一〇〇〇余人が師匠田川茂三郎の徳をしのんで建てたものである。田川茂三郎は東町で文化・文政期に読・書・俳を教えたといわれる。寺役人久保田謙立の末子で久保田鎮馬は書・札・歌俳や尺八にも通じていたが、武蔵国で客死したため、親戚らが瘞犀(えいさい)居士所書之経碑を善光寺東に建てた。撰文は友人岩下桜園である。

 書家山岸巻多は、松代藩右筆(ゆうひつ)をつとめ、善光寺西町に住居し、「算書諸礼に通じ剣法に熟し、謡曲を善くし、門人一千余に及ぶ」(碑文)という。没後、宮下大三郎ら門人が、岩下桜園撰文による得筆塚を善光寺東に建立した。

 善光寺東町の医家の山本公簡(こうかん)(号瘞中斎(えいちゅうさい))は、江戸に出て、幕府儒官古賀精里(せいり)に学び、詩文や書にすぐれ、天保十一年(一八四〇)九月、四七歳のとき江戸で没した。弟子たちがその追悼供養のため遺文碑を建てた。箱清水村(箱清水)出身丸山文豊(号清泉)は、書を馬島氏に学び、書家として活躍し、「弟子今殆(ほとんど)三千」という。安政六年(一八五九)に還暦を迎えた記念に、門人らが江戸の国学者寺門静軒(てらかどせいけん)の撰文を得て文豊の寿碑を建てた。忠霊殿前にある。