松代藩で天和二年(一六八二)に竜勝編『良寂禅師(りょうじゃくぜんじ)語録』を出版しているのが、信濃での近世初期の出版である。民間では、明和七年(一七七〇)の『早引節用集(はやびきせつようしゅう)』を版行(はんこう)した松本の白木屋与兵衛がそれにつぐ。上田の栃木屋(とちぎや)市兵衛は寛政三年(一七九一)『善光寺道図』を刊行している。安永七年(一七七八)の江戸出開帳のとき、善光寺では御影(みえい)を一〇万部印刷している。出版元は不明だが、信仰にかかわる需要が善光寺町の出版文化の発達を最初にうながした。
善光寺町の百菜堂(ひゃくさいどう)は、天明六年(一七八六)、江戸の俳人高大初(こうたいしょ)の『旅の筆はじめ』を手がけ、戸谷猿左(とやえんさ)の『老の春』(寛政六年)を板刻している。おそらく猿左の『善光寺連冬興一枚刷』や『蓬(よもぎ)が室』(寛政七年)、『さざれ石』(同九年)、『俳諧発句帖(はいかいほっくちょう)』(同十年)なども百菜堂の手になるものであろう。
寛政期(一七八九~一八〇一)には大門町の向栄堂が営業を始め、幕末まで松本の慶林堂とともに信州の出版界の大手として活躍した。向栄堂は代々岩下伴五郎(ばんごろう)と称し、別の屋号を蔦屋(つたや)という。寛政七年の『善光寺如来略縁起』が最初の出版である。これは元禄五年(一六九二)、京都の菱屋(ひしや)孫兵衛から出された『三国伝来善光寺如来縁起』の簡略本で善光寺参詣客向けであった。『都築の原』(文政十一年)、岩下桜園『義僕伝蔵伝』(弘化四年)などを出している。向栄堂の歴代当主は、維石(いせき)(岩下平仲、詩、書をよくする)や保躬(ほきゅう)(和歌)、姑峰(こほう)(俳諧)、豊州(岩下淳、和歌、詩)などの雅号をもつ文人でもあった。嘉永元年(弘化五年、一八四八)には今井墨芳(ぼくほう)編『俳諧一茶句集』を、江戸の英(はなぶさ)一助、山城屋佐兵衛との合板で出している。
寛政年間の善光寺町には、ほかに塩沢舎という書肆(しょし)があり、寛政九年に当時の善光寺代官今井柳荘(りゅうそう)(成章)の俳諧紀行集文『俳諧かたつぶり集』を出版している。名古屋の井上士朗(しろう)一行を迎えて記念出版した『鶴芝』二編も柳荘の編集で塩沢舎から出されたものという(矢羽勝幸『信濃の一茶』)。善光寺の松葉軒(小升屋(こますや)喜太郎)は、『俳諧今人発句集』(安政元年)、長尾無墨(ながおむぼく)編『善光寺繁昌記』(明治十一年)などを出版している。
文化・文政期(一八〇四~三〇)ごろから、俳書出版の需要が高まった。近世の地方俳書の九割は自費出版であり、俳諧結社によっては専属の彫工がいた。宝暦九年(一七五九)の『俳諧喜久合』を彫った松本伊勢町伊丹屋(いたみや)園右衛門が古く、一茶時代に北信濃で活躍した板刻師(はんこくし)は、稲荷山(千曲市)の岡村橘葉堂(きつようどう)のほかに、善光寺後町の永虹軒(えいこうけん)判治、更級郡岡田(篠ノ井)の西沢三郎右衛門良政などがいた。後町の永虹軒判治は、小県郡別所(上田市)の俳人倉沢乙堂編『百侘』(文化八年)の巻末に「東都出店 信陽善光寺後町 彫工永虹軒判治」と明記されているが、このころ中央の彫刻店が地方の中心都市に進出していた事実を語っていて貴重である。
一茶晩年の『夜半(よわ)のかはづ』(文政十年)は岡田の西沢三郎右衛門良政が彫刻、翌年刊行の俳書『無何有(むかゆう)集』も同人の手によるものと思われるが、文政ころになると、この種のあまり一般的といえない職業も生業としてなりたったようすである。板刻師は板刻のみをもっぱらとするのではなく、印判の彫刻から板下、写本、諸薬調合、諸名家の短冊品々などと手広く扱っており、俳書板刻などはむしろ余業に属したと考えられている。
情報のネットワークも、地域の出版文化の高まり、人や物の流通の活発化とともに、地方からの情報発信をもたらした。幕末の信濃には、城下町だけでなく、大きな宿場町にも書肆が出現していた。弘化四年(一八四七)の善光寺地震の「信濃国大地震之図」を出版したのは、小県郡上塩尻村(上田市)の名主原昌言(まさこと)であった。原昌言は、昌平坂(しょうへいざか)学問所の開板許可を得て本図を出版し、善光寺の書肆蔦屋伴五郎だけでなく江戸や大坂の版元までまきこんで全国へ流通させた。本図は、ナウマンの論文にも引用され世界へも紹介されている。佐久郡追分(おいわけ)(軽井沢町)の丸屋与六の出版した地震瓦版(かわらばん)は、江戸をへて名古屋へも伝えられていた。