『万葉集』や『古事記』などの古典研究から日本古来の精神を学ぼうという学問を国学という。京都の神官荷田春満(かだのあずままろ)、ついで遠江(とおとうみ)浜松(静岡県浜松市)の神官賀茂真淵(かものまぶち)らにより発展し、伊勢松坂(まつさか)(三重県松阪市)の医者本居宣長(もとおりのりなが)が大成し、平田篤胤(ひらたあつたね)以後各地へ広がった。享保(一七一六~三六)ごろ、松代藩士興津正辰(おきつまさとき)が荷田春満に入門し国学や和歌を学んだことが、北信での始まりといわれる。松代藩主真田幸弘(ゆきひろ)は、みずから賀茂真淵の和歌を好み、寛政六年(一七九四)に、真淵門人である大村光枝(みつえ)を京都より招いた。大村光枝は、埴科郡東条村(松代町)の天王山麓(さんろく)に柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)の歌碑「みすず苅(かる)山かげにうつしもてみかげたかくもあふぎつるかな」を建て、文化九年(一八一二)にも、門人飯島淳子(あつざね)らと姨捨山(おばすてさん)長楽寺に権少僧都成俊(ごんのしょうそうずせいしゅん)碑を建て、松代の歌学を興した。成俊は南北朝期の万葉集研究僧である。門人には松代藩士長野美波留(みはる)(七郎)、埴科郡中村(千曲市)の富農飯島淳子(庄作)、家老にもなった恩田柳泉(貫実)や小山田高寛、大英寺僧空同などがいる。とくに長野美波留は、大村光枝に師事後、江戸に出て塙保己一(はなわほきいち)の『群書類従』編集を助けるなど古典の収集に尽力し、幕府の和学講談所で歌学を講義するなど江戸で活躍した。『百人一首抄』『徴古図録』などの著述がある。
木島菅麿(きじますがまろ)は難波(なにわ)(大阪府)出身で、文化年間(一八〇四~一八)に松代藩に仕え和歌の指導をし、松代の百人一首ともいうべき『松の百枝』を編集した。藩士高田法寛(のりひろ)の娘で原昌胤(まさたね)に嫁いだ女流歌人原八十子(やそこ)は菅麿門人で、「ますらをの梓(あずさ)の弓のなりはずの雲井(くもい)にひびくことをこそ折れ」などの和歌を詠んだ。松代藩士岩下清酒(きよき)は、幸弘・幸専(ゆきたか)・幸貫(ゆきつら)三代に仕え郡(こおり)奉行などを勤めたが、木島菅麿について国学・和歌を学び和歌集『松の陰』などを著した。松代藩士高田法古は諸奉行を歴任し、和歌・横笛・琵琶(びわ)などに長じ、『木積集』や『伊勢路の栞(しおり)』などを残した。
松代藩士小松成章(荘兵衛)も藩主幸弘とともに光枝などに学び、明和八年(一七七一)に『春雨草子』という随筆を残している。