荒木田久老と清水浜臣

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『五十槻園(いつきその)旅日記』は、伊勢内宮御師(ないくうおんし)で国学者荒木田久老(ひさおゆ)の、天明六年(一七八六)三月から八月にかけての信濃国檀那(だんな)めぐりの旅日記である。三月二十日に善光寺東之門町の旅屋(たや)に到着、門人永井幸直らに迎えられ、周辺の檀家をまわり、そのあいまに永井幸直をはじめ、山崎七郎右衛門、須坂の春嶺(しゅんれい)、塚田道有(どうう)、山本左仲(さちゅう)、金箱村(古里)飯盛泰元、善光寺の中衆・妻戸・衆徒らが、神代(じんだい)巻や百人一首、万葉集などの講釈をうけた。六月二十八日に正信坊(しょうしんぼう)は、『日本国風』なる書物を借用している。東町医師青山仲庵(ちゅうあん)は、奇石を見せにきたが、「奇石更ニなし、貝品ハ勿論奇物なし」と書き留めている。八月五日に、「東之門町残らず見送り、八町庄屋新町迄見送り、問御所・後町庄屋横山迄見送り、権平・重兵衛あら町(若槻)迄見送り、幸直・伊左衛門・仙右衛門・隠岐守田子(おきのかみたこ)(同)迄見送り、幸直よりさけ重物持参」などの見送りをうけて、北陸まわりで八月二十四日に帰国した。

 更級郡今里村(川中島町)の内村家に生まれた仲子は、埴科郡坂木村(坂城町)の酒造家沓掛(くつかけ)家へ嫁いだ。荒木田久老に和歌を学び、また橘守部(たちばなもりべ)の指導もうけた。五五歳のとき、三男渕男と念願の秩父巡礼の旅に出て、帰途江戸・鎌倉・日光をまわって、その旅のようすを『東路の日記』に書き留めている(前田淑「沓掛なか子と『東路の日記』」)。『ももの種』『朧夜(おぼろよ)物語』『なか子歌集』などすぐれた作品を残した。久老の門人に、矢代村(千曲市)の武田識正もいる。

 荒木田久老の子が久守(ひさもり)で、その二代のちの久任(ひさとう)が、幼くして御師として善光寺へくだり、東之門町の旅屋(たや)に入った。文久二年(一八六二)のはしかの流行でわずか六歳でこの地に没したため、檀家により追悼の碑が寛慶寺に建てられ現存している。旅屋は、元禄のころに設けられ、宇治家(荒木田家)の檀家巡りの拠点となり、その横に伊勢社を配したため、その地を伊勢町というようになった。


写真25 荒木田久老『五十槻園旅日記』(『長野市の文化財』)

 文政二年(一八一九)夏、江戸の国学者清水浜臣(はまおみ)が上州、信州をめぐり『上信日記』を残した。閏(うるう)四月七日に碓氷峠(うすいとうげ)をこえて、北国街道を善光寺に向かった。小諸・上田には門人・知人がいなかったとみえ、素通りし、姨捨山(おばすてやま)で観月後、千曲川の出水のため松代・須坂をまわって、小布施の門人市村長寅宅に遊んだ。十一日に善光寺東町で医師青山茂葛(仲庵)宅や常徳院に宿泊し五日間滞在した。「青山茂葛がもとにいたりつきぬる」「茂葛ハ世々此所のくすしにて、家居(いえい)(住まい)の棟々(むねむね)しさ(しっかりとしている)いはんかたなし。いくよろづ巻の書(ふみ)ども函(はこ)にいれてならべおけり。深見勝寛(後町の深見六左衛門柴路(さいろ)、不老庵とも号す)、山本晴孝(山本左仲、号竹坡(ちくは))、三戸部春雄など来たりて名たいめんす。此(この)人々皆去年(こぞ)より名つきをおくりて歌のこととひ(問)まなぶどち(友達・仲間)也(なり)けり」と、茂葛宅や常徳院に滞在しつつ、善光寺門人らの案内で善光寺参詣などしている。斎藤吉易(吉香)、藤井茂彬(横町の茂左衛門淇水(きすい)、酒造家)、今井成忠(善光寺代官今井柳荘の子、磯右衛門)らも来訪し、茂葛の請いにより『百人一首』のはじめの二うたを講義した。その後各門人宅をまわり記念の歌文を書き残した。荒木田久老も来訪したことがある藤井茂彬宅(二川楼(にせんろう)とよぶ)では、「みすずかるすなぬの国に岩そそぐ水内あがたに うまし家さはにありとも 二川の此高殿にしく家あらめや」と詠んでほめている。十六日に高井郡仁礼(にれ)村(須坂市)の羽生田修平(はにゅうだのぶひら)のもとに向かった。修平はのち江戸へ出て浜臣の門下に入り修学した。この紀行文には古典からの引用文が多用され、国学者としての浜臣らしい文となっている。