荒木田久老や清水浜臣らの活動で、善光寺平の町や村に歌学中心の国学が普及した。大門町に生まれた岩下多門は名を貞融(さだみち)といい、桜園(おうえん)、菅山(かんざん)と号した。父平助は俳号草司(そうじ)といい、詩・文・書にも通じていた。文化八年(一八一一)大勧進への貸し金二五〇〇両を棒引きするかわりに善光寺寺侍(てらざむらい)に取り立てられた。
桜園は、二〇歳のとき名古屋に出て、同郷の先輩塚田大峰に漢学を学び、京都に出て頼山陽(らいさんよう)に漢詩文を学んだ。さらに江戸に出て清水浜臣(はまおみ)に師事し国学を学んだ。梁川星巌(やながわせいがん)、伴信友(ばんのぶとも)、寺門静軒(てらかどせいけん)などとも交遊し、学問は儒・仏・国学にわたったが、『堤中納言物語標注』『浜松中納言物語』など古典研究に業績を残した。大勧進寺侍として仕えてからは、『芋井三宝記』『善光寺別当伝略』『善光寺本尊考』などの善光寺史研究をおこなった。ほかにも『桜園集』『伊呂波(いろは)小伝』など著書は二〇余りにおよんだ。また各地の頌徳碑の碑文を書いた。桜園の顕彰碑は昭和五十一年(一九七六)に横沢町に建てられた(写真26)。
武田諫は、幕末から明治期の穂保(ほやす)(長沼)の神官で、漢籍や国学を学び、また教授した。真言宗晴信山千手院(せんじゅいん)の別当兼天神・八幡両社神職で、王政復古後、神仏混淆(こんこう)をあらため千手院を熊野社と改称した。碑文によれば、神官の任にあたり、性は温厚で、学徳も高く弟子が六〇余人いたという。岡村与五郎は、父万五郎の影響をうけ、幼少から学問に志し、成人後は松代へかよい山寺常山(じょうざん)に漢籍を学んだ。幕末から明治期にかけて、言麿(ことまろ)と称し国学者として活動した。『町村誌』に載る「鑿坑(さくこう)堰歌」などが知られる。