人生儀礼でもっとも大事とされたのは結婚である。当人にとってはもちろん、とりわけ上層家では娘を嫁(とつ)がせるために家名をかけて精いっぱいの支度(したく)をととのえた。婿のがわにとっても子孫を残して家の繁栄をはかるために、家の重大事であった。江戸時代後期の婚礼がどのようにおこなわれたかを、「婚礼入用帳」「婚礼祝儀帳」「婚礼の節献立帳」などの諸帳面をもとにみておきたい。婚礼の記録は諸家に多く残されているが、ここでは記録がよくそろっている更級郡岡田村(篠ノ井)の寺沢家が、嫁「お貞(さだ)」を迎えたときのようすをみよう。当時は、嫁ぐことを「縁女引っ越し」、嫁の支度品を「縁女荷物」とよんだ。
文政五年(一八二二)九月、四ッ屋村(川中島町)の中沢弥七夫婦の仲人(なこうど)で、寺沢慶十郎とお貞との結納がおこなわれた。慶十郎は弱冠一七歳、お貞は松代城下の鍛冶(かじ)町に住む甚之丞(じんのじょう)の娘で、年齢は記録がなくて不詳。慶十郎はなぜこんなに若くして結婚することになったのか。それには寺沢家のお家事情があった。慶十郎の父長蔵がこの年の三月に三八歳の若さで亡くなったことによる。寺沢家の当主は代々、村役人をつとめてきたことから、父親が死んだことで跡継ぎ慶十郎への期待が一気に高まったのだった。このとき祖父は七〇歳でまだ存命だったが、身代(しんだい)を譲って隠居の身となっていた。慶十郎と寺沢家の人たちは、昆布(こんぶ)・鯣(するめ)・鯛(たい)・樽(たる)を持参して松代のお貞の家へ出かけた。そこで結納の儀式はおこなわれた。高さ八寸九分、代銀一三匁(もんめ)のみごとな酒樽は、東福寺村(篠ノ井)の桶工(おけく)喜兵衛に注文しておいたものだった。婚礼は明くる年の二月十九日と決まった。
婚礼の一〇日ほど前から手伝い人が寺沢家へきて、本格的な準備が始まった。祝い膳用の買い出し、大工による家屋の修繕、障子の張り替えなど、一六人の人足がのべ八七日分も働いた。人参(にんじん)・上牛蒡(じょうごぼう)・豊後(ぶんご)いも・長いもといった蔬菜(そさい)類のほか、かんぴょう・生姜(しょうが)・ゆず・ひじき・蒟蒻(こんにゃく)・豆腐・数の子などの食品が買いととのえられた。寺沢家の場合、料理の品はこれにとどまらなかった。善光寺東横町の喜多屋から赤あら・生大魚・大鰤(ぶり)・大海老(えび)・まだら・大鰆(さわら)・鯖(さば)・たこ・干(ほし)海老・干かまぼこ・ふくらげ(鰤の若魚、いなだ)など、高価な魚介類を大量に仕入れた。夜の婚礼にそなえて、善光寺大門町の桜屋から灯火用の蝋燭(ろうそく)を大小七〇丁も買いこんだ。婚礼の前々日、二月十七日にはお貞の縁女荷物が宰領(さいりょう)一人と一〇人の人足によって、寺沢家へ運ばれてきた。六〇人をこえる地縁・血縁の人たちから、婚礼の祝儀がつぎつぎと届いた。小袖(こそで)・羽織地・帯・扇子・酒樽・鯣・銭といったように、その品目はさまざまだった。
婚礼当日、二月十九日の早朝、婿慶十郎と仲人、それに寺沢家の近い親戚が供をつれてお貞の家へ出かけた。これは「婿入り」の儀式である。婿は、酒代一両と三種一荷のほか、嫁の家族へ白麻や蓬莱(ほうらい)画入りの扇、それに女足袋などを祝儀として持参した。その晩にはいよいよ縁女引っ越しがおこなわれた。花嫁お貞が乗る駕籠(かご)、両掛け人足、供の女と親戚のものたちが、仲人の中沢弥七夫婦の道案内で寺沢家へ向かった。赤坂の船渡し場で千曲川を渡ると、南原(川中島町)まで提灯(ちょうちん)を掲げて「遠見」にきた寺沢家の使者の出迎えをうけた。
寺沢家では花嫁を迎え入れるために、提灯二張が門前を赤々と照らしていた。門前では上下(かみしも)で正装した二人が出迎えてあいさつをした。門をくぐった花嫁が縁側まですすんでくると、これまた上下で正装した花婿慶十郎と親戚代表が出迎えた。そのあと、「侍女所(じじょどころ)」とよばれる女衆二人が、手燭(てしょく)の明かりを灯しながら花嫁を茶の間まで誘導した。表役も裏方も準備は万端ととのえられた。世話人は寺沢卯平、謡(うたい)は石川清十郎。座敷取り持ち一〇人、勝手取り持ち一〇人、料理人助(すけ)働き三人、家具出し二人のほか、膳部として椀方(わんかた)・給仕・酒の番・茶の番・供座敷給仕・飯炊きといった態勢だった。買い出し、献立の用意、お茶・酒・料理の給仕、花嫁の案内・お供といったように、婚礼では女衆の出番、活躍が欠かせなかった。
二十一日には、「三ッ目お客」(嫁披露)がおこなわれた。仲人中沢弥七の御内室が主賓(しゅひん)で、近い親戚の御内方や御袋様ら女衆ばかり二〇人もが招かれている。親戚の一員として付きあう嫁の紹介がされ、縁女荷物の披露がなされたにちがいない。豪華な花嫁支度にはうらやむ声があがったことだろう。この席は婚礼で手伝った女衆の慰労会でもあり、にぎやかに赤飯がふるまわれた。ちなみに、往来のためになんども世話になった赤坂の船渡し場へは祝儀を届け、古くからの慣例にしたがって松代の座頭坊(ざとうぼう)(盲人たちの組織)へも婚礼賀儀として銭二〇〇文を渡した。座頭坊の永了(えいりょう)は木町に住んでいて、しばしば武家や商家からの賀儀配当をうけていた。縁女荷物や嫁にたいして、若者たちがしばしば悪口雑言を浴びせることが、村によってはあったようだが、寺沢家ではそうしたこともなく滞りなくことが済んだ。質素倹約を旨とするために、衣服や料理の奢侈(しゃし)禁止が村のなかでも取り決められることが多かったが、寺沢家の場合などは贅沢(ぜいたく)の限りを尽くしたといってよい。建前と本音を使いわけた一例である。
婚礼からおよそ二ヵ月後の四月十五日は、お貞にとってはじめての「里開き」(里帰り)だった。仲人夫婦にともなわれて、松代の実家へ帰った。ところが、このころすでにお貞は寺沢家へは戻らないと決意していたようである。七月に入ると、お貞の父親は慶十郎の祖父にあてて手紙を出した。「おさだ儀、長々逗留(とうりゅう)まかりあり、差し支えのほど、御容赦くだされたく候」という内容である。里帰りしたお貞はそのまま実家で暮らしていたのだった。その間、仲人が出向いて説得したり、父親もすぐにも戻って婿と話すようにと諭したが、お貞は承服しなかった。家と家どうしの結婚、親が決めた相手との結婚に、お貞は大胆にも抵抗したのだった。父親は「お貞、愚痴の生付(うまれつき)に御座候や」と弁解しながら仲人に、「お貞が離縁したいと考えていることを婿の慶十郎へ伝えてほしい」と頼むほかなかった。
婚礼から八ヵ月後の十一月、お貞は離縁した。嫁がわ・婿がわともに莫大(ばくだい)な経費を費やしたにもかかわらず、あっという間に破局を迎えた。お貞の実家では、箪笥(たんす)一・櫃(ひつ)二・長持一・駕籠一のほか、手水鉢(ちょうずばち)と盥(たらい)を受けとった。箪笥・櫃・長持のなかにはお貞の衣類や夜布団のほか、身の回りの化粧道具などが収納されていた。いずれも縁女荷物として寺沢家へ持ちこまれたものだった。駕籠は嫁入りするときに使ったもので、これらすべてがお貞の財産とみなされていたために、離縁にさいして持ち帰ったのだった。お貞の場合は、金一五両という大金まで手にしている。これは名目上、夫慶十郎の父長蔵の遺物として贈られたものだった。受け取り状にはお貞の署名がある。長蔵が亡くなったのはお貞が嫁ぐ少し前だったから、この金は慰謝料の意味あいをもって渡されたものであろう。じつは、父長蔵が亡くなったとき三〇〇両の遺産金があった。その金を祖父が、「慶十郎がめでたく成人するまで」と親戚にいったん預けた。結婚後にこの金を慶十郎が受けとり、一五両はその一部だった。
ところで、慶十郎は再婚(再婚時の史料が見当たらないので、お貞が復縁した可能性も否定できない)した。わかっているだけで四人の子がいた。娘一人は幼くして死に、ほかの娘二人(おせい・おふさ)は他家へ嫁いだ。跡継ぎの安左衛門がわずか一〇歳のとき、慶十郎は四一歳で亡くなった。慶十郎の父は三八歳で、姉は四三歳で、嫁いだ娘のうちおせいは二六歳で、おふさは三六歳で亡くなっている。みな早世である。江戸時代後期で、しかも上層家の育ちといえども、長生きすることは決して簡単ではなかったといえる。