子どもの出生と成長

481 ~ 485

文政五年(一八二二)、埴科郡清野(きよの)村(松代町)の小出家に嫁いだ「おまつ」(仮名)は、その後一七年のあいだに男児七人と女児一人、あわせて八人の子どもを出産した。およそ二年に一度ずつ妊娠、出産を繰りかえしていた。諸史料から察して、当時としては平均的な出産回数だったと思われる。おまつが産んだ八人の子のうち四人は、産後二日、五日、七日、ひと月、といったように早世している。たとえば、初産の男児は七夜祝いを目前にした五日目に、三番目に生まれた男児は良作と命名されたもののひと月で亡くなった。当時、子どもの死亡率がいかに高かったか、子どもを無事に成長させることがいかにむずかしかったかを示している。医療が発達・普及していないために、免疫性の弱い子どもは病気にかかりやすかったためである。

 小出家で記された祝儀帳(松代町清野 小出栄一蔵)をもとに、子どもたちの成長のようすをみていくことにする。文政七年四月、おまつの初産は男児だったが、このとき親戚や近隣の付き合いのある二二軒から祝儀が届けられた。出産の祝儀品はきまって米の粉だった。この粉はおまつへの産見舞いという意味あいをもっていた。不憫(ふびん)なことにこの男児は、端午(たんご)の節供(せっく)と七夜の祝儀をもらいながら夭折(ようせつ)した。すでに親戚からは鑓(やり)四本(木鑓三と竹鑓一)・面一つ・兜(かぶと)一つが届いていた。不幸を知った親戚は、すぐさま香典の線香と茶(丸茶・角茶)をもって供養に駆けつけた。


表9 小出家の子どもたちの成長

 おまつは翌年の四月にまた男児を出産した。千代松と名づけられたこの男児は、無事に成長していった。長男となった千代松の出生のときは、一九軒から米の粉をもらっている。八日後の七夜祝いでは、四〇軒から、産着(うぶぎ)一四着のほかに、しぼり(手ぬぐい)・白布・扇子・鳥目(ちょうもく)(銭)が贈られた。千代松に贈られた産着には、木綿紋付き・郡内(ぐんない)・帷子(かたびら)(ひとえもの)・京入嶋(縞)・八重などの種別がみられた。郡内は甲州郡内地方(山梨県都留(つる)郡)産の絹織物で、夜具や羽織の裏地として用いられた。四月二日生まれの千代松は、すぐに初節供(端午の節供)を迎え、三五軒から祝儀が届いた。祝儀の大部分は鑓(二九本)で、ほかは幟(のぼり)一本、風車(かざぐるま)一つと銭だった。千代松の宮参りはひと月後の五月四日におこなわれた。十二月には正月に向けて半弓(はんゆみ)(飾り用の小型弓)祝いが届いた。千代松は一七挺の半弓をもらっている。半弓一挺は銭三〇文ほどで、二年目にも半弓祝いがおこなわれた。翌年の四月にはめでたく誕生祝いがおこなわれた。この祝いはごく内輪の五軒から銭と扇子が贈られた程度で、それまでの諸祝いと比べると簡素だったとみられ、二男・三男のときには誕生祝儀はなかったようである。なお、ここでは夭折した子を除いて子どもに順序を付した。

 千代松の登山(とうざん)(寺子屋入門)祝いがあったのは七歳(数え年、以下同じ)になる春で、文庫一つのほか筆と墨、それに不端切紙(はしきらずがみ)と杉原紙が贈られた。早い登山だが、二男弥十郎、三男弥三郎にもそれぞれ七歳、六歳のときに登山祝いが贈られた。小出家が村役人をつとめる家筋であったこともあって、男子たちへの期待は大きかったにちがいない。文庫は母おまつの親元とみられる寂蒔(じゃくまく)村(千曲市)の喜三郎が贈った。千代松が元服したのは一五歳で、祝儀には小倉(こくら)帯地や手拭(てぬぐい)、扇子・酒札(さけふだ)・銭などが贈られた。小倉帯地は九州小倉(北九州市)地方産の綿織物で、経(たて)糸を密にし緯(よこ)糸を太くして織ったために帯地や袴地(はかまじ)として用いられた。元服にふさわしい祝儀だった。酒札は贈答用の商品券で、さまざまな祝儀に重宝がられた。三男の弥三郎も一五歳で元服している(弥十郎の元服の歳は不明)。千代松は二〇歳のとき、湯之助と改名した。幼名から成人名(烏帽子名(えぼしな))に変えるのは、かならずしも元服のときではなかったとみられる。

 女の子の成長は、長女おちよを例にみることができる。出産祝いや七夜祝いは男児同様におこなわれた。八月生まれのおちよの場合、女児として初めての祝いは、正月の羽子板祝いだった。おちよには暮れのうちに三枚の羽子板が届いた。親元の喜三郎が贈ったのは五〇文ほどのもので、ほか二枚は一二文ほどであった。庶民にとっては手ごろな値段だった。二年目の正月にも羽子板が贈られている。

 三月の上巳(じょうし)祝い(初節供)では、雛(ひな)や菓子、それに銭をもらった。もらった雛の数は六つで、祝儀帳には「一つ二四文から七二文程度の雛」と記載されている。当時流行の紙製あるいは土製の雛であったろう。享保(きょうほう)雛とか古今(こきん)雛とよばれた豪華な内裏(だいり)雛の記載は見られない。しかし、慶応二年(一八六六)の小出家の祝儀帳には、「内裏」や「押荏(おしえ)(押し絵雛)」という記載がいくつかみられ、これらの雛が幕末期には贈答品とされたことがわかる。おちよには、寂蒔村(じゃくまくむら)の喜三郎(前出)から、金二朱が贈られているから、これを元手に高価な雛を求めることができたと思われる。小出家では女児のおちよも、六歳のときに登山祝いをしている。親戚三軒からおちよに贈られたのは、一六文の墨一つと八文の筆三本、六文の筆七本、三文の筆四本だった。

 ところで、子どもの病気のなかでもっとも恐れられたのは、疱瘡(ほうそう)(天然痘(てんねんとう))と麻疹(はしか)で、全国的に五歳以下の子どもの死亡率が高かったといわれる。小出家では、成長した子もみな疱瘡にかかっている。ジェンナーが発見した種痘(しゅとう)が日本に入ってきたのは嘉永二年(一八四九)だったから、千代松やおちよのころは、ひたすら治癒を祈る(祈祷(きとう)など)ほかなかった。おちよと弥三郎は三歳半、千代松が六歳、弥三郎は七歳半のとき疱瘡にかかった。おちよと千代松が、弥十郎と弥三郎がほぼ同時期に疱瘡にかかっていることから、家内で伝染したものと考えられる。幸い四人とも一〇日ほどで回復した。子どもが疱瘡にかかると、人びとが見舞いに訪れ、治ると「湯流し」という祝いをした。湯流しは、釜で湯を沸かし、その蒸気で子どもを蒸すまねをしたり、あるいはその湯でからだを清めたりした。

 疱瘡見舞いでは、饅頭(まんじゅう)・ぼた餅・柏餅(かしわもち)・菓子・らくわん(落雁(らくがん)か)・赤飯・草餅・米粉・蕎麦粉(そばこ)・求肥餅(ぎゅうひもち)(蒸した白玉粉に砂糖と飴(あめ)を加える菓子)・色々のかた(重箱に詰めた料理)などが贈られた。求肥餅は、求肥飴とともに善光寺名物として知られていた。また、湯流しの祝いでは扇子や銭が贈られた。

 子どもはその家の子どもであると同時に、村の子どもとしても承認され育てられた。宮参りや元服など、いくつかの通過儀礼を果たして共同体の一員になれたのだった。数々の祝いをみると、とくに祝い客が多いのは、出生と七夜祝い、それに節供の祝いと疱瘡見舞いだった。周囲の人びとは子どもの生育を強く念じ、儀礼を迎えるごとに温かく祝福した。祝福された家では、かならずお礼の振る舞いをおこなった。小出家では、扇子・足袋・小杉紙・手拭・鳥目を用意して返礼した。祝うことについて、男女の差や兄弟の差はあったかどうか、表10で示した祝い客の数や品物からみるとそれはあったといってよい。いったん長男が成長すると、長女と二男以下はやや軽んじられる。とはいえ、小出家で生まれた子どもは等しく大切に育てられたであろうことは、生後わずかひと月で早世した良作が、智泡童子という法名もつけられて埋葬されたことからも察することができる。


表10 小出家の子どもの祝いに出向いた人数