余暇を楽しむ村人たち

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村で生まれた男たちは、成長すると奉公稼ぎのために村を出るか、父祖の田畑や家業をつぐために、あるいはその手伝いをするために村に残った。村の若い男たちの多くは、若者仲間に入って先輩たちから一人前の大人になるための指導をうけた。天保七年(一八三六)、水内郡平林村(古牧)の若者組記録にはつぎのような教訓がある(『県史通史』⑥口絵)。

人生まれて七、八歳より手習いたし、十歳ころより算盤稽古(そろばんけいこ)いたさず候えば、生涯無筆・無算と人に笑われ、(中略)十五歳より身を修め、家をととのえ候ことを学び申さず候えば、成人次第不埒(ふらち)あいかさなり申すべく候、三十歳まで人の道を行い習い申さず候えば、一生流浪者(るろうもの)にてあい過ぎ候よう申し伝え候、

 江戸時代には七歳、一五歳、三〇歳が人生の節目だと考えられていた。平林村の教訓では、「若いときに努めるべきことを怠けると、一生人の道を失うことになる」と説いている。男子は生まれたときに親に名づけてもらった名前(幼名)を成長とともに変えた。「元服」といって大人の仲間入りをするのは一五歳だったから、そのときには一般に名前を変えることが多かった。この名前を烏帽子名(えぼしな)とよんだ。また、家をつぐと世襲名を名乗ったし、家督を譲って隠居すると隠居名を名乗ったりもした。こうして人生儀礼の節目ごとに気持ちを新たにしたのだった。ともあれ、平林村の教訓にあるように、人生で大事なのは三〇歳ごろまでで、「人の道を行い習い申さず候えば、一生流浪者にてあい過ぎ」ることになる。

 若者仲間の男たちには、とりわけ村の祭事が任された。そのため祭礼の余興(よきょう)を引き受けるなどして、村人に遊興の場を設営した。村の老若男女もまたこぞってこうした余興を心待ちにしていた。なお、若者組の成立や活動などについては、前巻(『市誌』③四章)でのべてある。ここでは、若者たちが中心になって執行した祭礼の余興という窓から、村人たちの生き方を紹介してみたい。松代領の水内郡入山(いりやま)村・上ヶ屋(あげや)村・桜村(芋井)を舞台にしてひとつの事件が起きた(『入山村文書』県立歴史館蔵)。これは、嘉永四年(一八五一)の秋祭りに、村の男たちが禁制の歌舞伎を上演したことが藩役人の耳に届いて、咎(とが)められることになったという事件である。その男たちとは、上ヶ屋村平組の一〇人、桜村の七人、入山村犬飼(いぬかい)組の五人、入山村影山(かげやま)組の三人、あわせて二五人であった。

 嘉永四年の九月二十七日の夜、入山村影山組の産土(うぶすな)熊野大権現(だいごんげん)祭りで、若者たちは太神楽(だいかぐら)の獅子舞(ししまい)を奉納した。そのあと、同村の仲右衛門家へ行って、座敷で村人に歌舞伎を披露した。この披露にいたるまでには、二十二日から五晩も稽古がつづいた。捨五郎と仲右衛門の家が稽古宿だった。そもそも若者たちは、祭礼の夜に歌舞伎を演じたいと、前もって影山組の清吉(末治郎の親)に頼んでおいた。若者のその熱意に年配者が応じたのだった。清吉は九月に入ると戸隠山神領の上野村(戸隠村)の祭礼に出かけ、四つの演目を見覚えてきた。それを参考にして独自の脚本をこしらえたのだった。むろん見覚えてきたといっても、なんらかの素地はすでにあったか、あるいは脚本を借りてきたのだろう。清吉がこしらえ、若者たちが演じた四つの演目とは「神霊(しんれい)矢口の渡し二段目」「同四段目」「一之谷二段目」「傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)新口村の段」だった。

 この四目すべてを演じるには、おそらく夜通しかかったであろう。配役をみると三吉は四目(もく)に、金作と喜与吉は三目に、新治郎・円治郎・半右衛門の三人は二目に登場するといったぐあいに、なかなかの役者ぶりを発揮している。「神霊矢口の渡し二段目」で八郎役を演じたのは杉治で、年は一四歳だった。年寄りが指導にあたって若者が役を演じる。こうした稽古と舞台披露が男たちの最大の楽しみだったようである。村の休日をいかにもりあげるかは、村の男たちの能力や腕前にかかっていた。村人たちは夜を徹して若者たちの演技に興じ、村祭りの夜を満喫したのだった。


写真28 神霊矢口の渡しの一幕(大鹿歌舞伎)

  演目と配役

    神霊矢口の渡し二段目

     南瀬六郎  金作

     由良兵庫  新治郎

     湊(みなと) 三吉

     御代    喜与吉

     八郎    杉治

    神霊矢口の渡し四段目

     頓兵衛   金作

     六蔵    三吉

     おふね   喜与吉

     重治    新治郎

     びん助   円治郎

    一之谷二段目

     はやし   半右衛門

     忠慶    金作

     太五兵衛  喜与吉

     茂治兵衛  三吉

    傾城恋飛脚新口村の段

     忠兵衛   半右衛門

     梅川    三吉

     岡三郎女房 円治郎

 上演にあたって衣装や身なりはどうしたか。藩役人の取り調べにたいして村人たちは、「女形(おんながた)を演じる者は髷(まげ)をせず、かつら髪へ棒を差し、白手ぬぐいをかぶった。木刀は粗朶(そだ)をけずって作り、衣類は銘々母親や姉の物あるいは隣近所から借りた」と返答している。また、三味線(しゃみせん)は遠慮して使わないで演じたという。はたしてこの証言が確かかどうかはわからない。後難を恐れて「華美なことはしなかった」と口裏を合わせたのかもしれない。村の三役人は、「今年は日照りの害があって畑の検分をうけたほどなのに、このような不始末を犯してしまって申し訳ない」と詫びた。祭りのときには、村役人は禁制を承知でいつものように大目に見ていたのだろう。

 さて、同じころ影山組だけでなく、犬飼組でも歌舞伎が演じられた。影山組の藤治郎と犬飼組の二人が、戸隠山神領の村祭りに出かけて見覚えてきたのが「箱根霊験」だった。三人は万歳(まんざい)と称して、この演目を九月十三日の祭礼の夜に演じた。内通役を藤治郎が、筆助役を徳蔵が、筆助の女房役を市十郎が演じた。女形が混じることで、観客の注目もいちだんと高まった。かれら三人は、「万歳は神楽につきものという意識で演じたが、箱根霊験と名づけて演じたために手踊り(歌舞伎)に見られてしまった」と弁明している。

 上ヶ屋村の長治郎は、病気平癒(へいゆ)を立願して、八月二十三日の祭りの夜に花火を打ち上げた。そのうえ、同じ日の夜に、村の文左衛門宅で、別の日には桜村の久米右衛門(くめえもん)宅で、長治郎が施主になって歌舞伎を上演した。お触れに抵触することを知りながらの行為だった。このことが発覚して、長治郎は三貫文の過料銭を五日以内に松代城下の検断所まで持参するよう命じられた。じつは、桜村の紋治郎と永助は文左衛門宅での上演に、上ヶ屋村の愛作と喜代松は久米右衛門宅での上演に加わっていた。歌舞伎は村の各地で演じられていて、ひとつの村で歌舞伎の稽古や上演があると、近隣の村々から若者が寄ってきて、稽古に加わったり見物したりしていた。こうして見覚えたものを土台にして、自分たち独自の脚本を仕上げていったのだった。

 八月から十月にかけて、村々の夜は太神楽や歌舞伎の見物で賑わった。男たちは、青年期、壮年期という人生の多感な時期にこうした祭事にかかわる。そして、こうした体験をとおして、年配者や近隣の村人たちとも接しながら、村をになうための素地と力量をつちかっていった。村の男たちは、かならずしも農業耕作だけに明け暮れていたとは限らない。たとえば、今井村(川中島町)や塩崎村(篠ノ井)の作間渡世の実態をみると、職人あり、行商人あり、商売人ありで、土地柄を生かして多様な小商(こあきな)いの仕事をしていたものが多かった(『県史』⑦一二一一、一二一四)。したがって祭事をもりあげるために職人や行商人、小商いをするものの技量や知恵、それに各地の情報が生かされたことも十分想定できる。

 ところが、幕府や藩はこうした若者たちの動きを大いに規制した。すでに寛政十一年(一七九九)には、「神事祭礼の節、芝居見世物(しばいみせもの)など同様のことを催し、衣装道具も拵(こしら)え、見物人を集め、金銀を費(つい)え候儀これある由あい聞こえ不埒(ふらち)のことに候」と達している(『牧民金鑑』)。この触れは、幕府領・私領および寺社領など、全国すべての領分へ通達され、そむいたものはかならず咎(とが)められるとされた。このように堅く禁じた理由は、「百姓が遊興にふけって耕作を怠けるようになると、荒れ地が増えて困窮し、ついには離散のもとになる」ということだった。こうした制禁はその後、文政(ぶんせい)改革や天保(てんぽう)改革へと受けつがれ、「悪党どもが村へ立ち入って難儀する」という理由も補足されて取り締まりが強まっていった。全国的な規制のなかにあって、たてまえ上、松代藩もまた村々の遊興芝居を見逃すわけにはいかなかったのである。