余興に奔走する若者たち

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入山村諸村の事件から三年後、嘉永七年(安政元年、一八五四)に更級郡大塚村(更北青木島町)でも事件が起きた(更北青木島町大塚『宮下家文書』)。概要はすでに前巻(『市誌』③四章)で触れてある。この村の若者たちが、産土(うぶすな)諏訪神社と秋葉(あきば)宮の石宮建立(こんりゅう)祭りの余興で歌舞伎などを演じたのを、松代藩に咎(とが)められた。「道中踊り」あるいは「道中万歳(まんざい)」と称して、「箱根権現十一段目」「忠臣蔵五段目」「浜松風塩汲(はままつかぜしおくみ)」「彦山権現六段目」「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)木の実の段」を大々的に演じた。そのほか、七福神踊り・源太踊り・伊勢音門(おんど)・おけさ踊り・つく羽根踊り・なんだねい踊り・甚句(じんく)踊りなど、多彩な演目を各組の若者たちが披露した。「歌に太鼓・三味線、拍子(ひょうし)合わせ、当世流行(はやり)のなんだねい踊・甚句踊、千秋(せんず)万歳の舞い納め」といったぐあいだった。甚句踊りが流行(はや)っていたことは、嘉永五年七月の祭礼で、飯山領の水内郡吉(よし)村(若槻)の若者が踊ったのを村役人に咎められたことからもうなずける(『県史』⑧一一二〇)。当時こうした余興は一般に、狂言または手踊りとよばれ、これには浄瑠璃(じょうるり)もふくまれた。しかし、大塚村でおこなわれた七福神踊りほか各種の踊りは、いまではその様態がまったくわからない。

 大塚村の子ども二、三〇人が「亜美利加(あめりか)征伐の陣立(じんだて)」で登場したのも、村人たちの目を奪ったにちがいない。総督ペリーが軍艦四隻を率いて浦賀港(神奈川県横須賀市)に入航したのは、嘉永六年の六月だった。翌年の正月にペリーが浦賀に再来航し、二月には和親条約(神奈川条約)が結ばれた。このような緊迫した世相に、この村の男たちは「アメリカ征伐」の風刺(ふうし)芝居でいち早く反応したのである。ところで、歌舞伎を演じた若者の何人かは、「だれだれの孫」と肩書きされていることから、若年者が演じていたとみてよさそうだ。「彦山権現六段目」で弥惣松(やそまつ)役を演じたのは、きんという七歳の女の子だった。男歌舞伎といえども、幼女もまじっての余興だったところにも、当時の地芝居(じしばい)(村芝居)の特徴がみられる。太神楽・獅子舞の奉納、神輿(みこし)だけでは満足しきれない、エネルギッシュな面が若者たちにはあった。

 元吉は三目に、与兵衛と藤作は二目に登場するといったように、入山村と同様に若者のなかには芝居にたけた素人役者がいた。また、「忠臣蔵五段目」で定九郎を演じた五郎治は、となりの上氷鉋(かみひがの)村(川中島町)に住んでいたが、休日にしばしば大塚村へやってきては芝居を教えていたほどだった。入山村の事例でもみられたように、芝居を通じて情報交換や技能伝達などの交流があり、それが地芝居の隆盛につながったといえる。

  演目と配役

    箱根権現十一段目

     勘助   元吉

     上野   与兵衛

     勝五郎  藤作

     勘助母  安蔵

    忠臣蔵五段目

     与一兵衛 国治

     勘平   三十郎

     定九郎  五郎治

    浜松風塩汲

     松風   元吉

     此兵衛  安蔵

    彦山権現六段目

     おきの  元吉

     友平   与兵衛

     京極   藤作

     弥惣松  きん

 藩役所へ提出した縋書(すがりしょ)(詫書(わびしょ))には、「髷(まげ)はいっさい用いず、女形は髪へ手ぬぐいをかぶり、木刀は粗朶(そだ)をけずって作り、衣類は銘々母親や姉の物あるいは隣近所から借りた」とある。これは入山村が提出した縋書の表現とまったく変わらない。文書(もんじょ)は一定の雛型(ひながた)をもとにして仕上げられたと考えられることから、じっさいの身なりや衣装などは華美であったと推測できる。ちなみに嘉永三年、飯田領の三日市場村(飯田市)では、江戸歌舞伎役者坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)の弟子で坂東八十八(やそはち)という男をはじめ坂東・中村・市川と名のつくものを師匠に頼み、若い衆が一〇〇日も稽古した。木材を調達して専用の舞台をこしらえ、三月の節供をはさんで三日間、村の鎮守の杜(もり)で歌舞伎を催した。近隣から見物人を大々的に集めてのことだった。役所へ届けたうえでの興行だったが、所によってはこうしたことがおこなわれていたのである(『県史④一九三八』)。

 江戸時代の後期には若衆が中心になっての太神楽や獅子舞、あるいは祭礼の花火や相撲がさかんだった。加えて軍談(講談)や芝居の興行なども各地でおこなわれていた。村の文化を支え、伝統的なものに根づかせていったのは、男たちの熱意と行動力、それに興行を楽しみに待つ村人の篤(あつ)い心情だった。領主がわはたてまえ上、時には「風紀」の手綱(たづな)をしめたが、徹底した取り締まりはできず、寛大に目こぼししながら対応していた。

 入山村諸村も大塚村の場合も、白洲(しらす)に呼びだされた村人たちはたいした罰もうけなかった。大塚村の場合は白洲からの帰り松代町の「町宿(まちやど)へ引き取り、一同後吹(あとふ)き一杯祝い」といった余裕の雰囲気さえあった。とはいえ、若者たちの何人かは村役人に同道して松代まで出向いたし、町宿の経費をはじめ諸経費がけっこうかかった。藩役人への対応、町宿での諸事務、諸経費の村割合負担など、村役人たちの所作から若者たちが学ぶことは多かった。こうした経験をとおして世間を知り、村をになう大人へと成長していったのである。