吉宗の武芸奨励策もあり、享保(きょうほう)(一七一六~三六)ころから江戸相撲がさかんになり、延享(えんきょう)元年(一七四四)には全国に相撲免許制がしかれ、勧進(かんじん)相撲の形態もしだいに整いはじめ、江戸相撲の地方巡業がおこなわれるようになった。
明和四年(一七六七)に、小県郡大石村(小県郡東部町)に生まれた百姓関太郎吉は、幼いころから怪力の持ち主で、江戸相撲浦風林右衛門一行に見いだされ、江戸相撲力士となり、雷電為右衛門として寛政二年(一七九〇)から文化八年(一八一一)に四五歳で引退するまで、優勝二五回、二五四勝一〇敗で、勝率九割六分二厘強となり、相撲史上最高の勝率を残した(中村倭夫『信濃力士伝』)。
引退後の雷電は、数え年五〇歳の文化十三年まで、門弟たちをつれて東北・関東・信州などを巡業している。文化九年には東大関柏戸(かしわど)ら六〇人ほどで、江戸から甲州をへて、信濃路に入り、飯田から各地を旅したあと、九月五日から晴天七日間にわたって、善光寺堂庭で相撲興行し、みずから西方大関をつとめている。九月十日に、松代藩家老鎌原桐山(かんばらとうざん)は、家臣二人をともなってお忍びで見物に出かけ、この相撲のようすを書き留めた。
この記録によれば、行司は式守(しきもり)鬼一郎・式守要蔵・木村小太郎・式守鬼三郎、江戸年寄が千賀ノ浦喜三郎・二十山(はたちやま)重五郎・浦風林右衛門で、勧進元が二十山重五郎、世話人横沢三治であった。木村小太郎は、善光寺後町の六左衛門子分の倅(せがれ)でその年一六歳で、木村家へ養子に入った者であるという。四ッ半(午前一一時ころ)から昼時過ぎまでに地取(じどり)(部屋ごとの稽古)をしてから三番勝負がはじまった。三番勝負が終わって一番勝負がはじまり、雷電は東関脇千草山と対戦して勝っている。中入り後は七つの取り組みがあり、七ッ半(午後五時ころ)過ぎに終わった。
この興行打上げ後の九月十三日、更級郡丹波島宿(更北丹波島)において、松代藩主真田幸専(ゆきたか)の御前相撲(ごぜんずもう)が、同じ顔ぶれによっておこなわれた。御覧所は、御紋付き紫の絹幕が張られ、力士たちは細川侯(熊本藩主)の御前に出たようだとほめそやしたという。このとき雷電は千草山や柏戸とも対戦し勝っている。中入りのとき力士へ饅頭(まんじゅう)一五〇〇個、塩鯛(しおたい)三枚、黄菊酒(柳樽五つ)のほか、雷電ら八人の力士へ金三〇〇(金三分)疋(ぴき)ずつ、琴の浦・寿へ金二〇〇疋ずつ、上総野(かずさの)・鱗(うろこ)へ金一〇〇疋ずつ下げ渡された。
このとき、使用した四本柱や幕などは残らず丹波島宿へ下げ渡され、以後同地においては自由に相撲興行が許され、相撲が盛んになった。また、高井郡綿内村(若穂)の小坂神社の四方屋根の三段辻の土俵は、雷電がつくったという伝承がある。
こうして北信濃では祭礼相撲が盛んになった。天保九年(一八三八)八月の松代荒神町祭礼では、大幟(おおのぼり)や屋台が出されたほか、子供角力(相撲)(すもう)もおこなわれた。角力行司二人、角力世話人五人らが準備をして子供一九人が角力をとっている(『県史』⑦一八七六)。蚊里田(かりた)神社(若槻)や湯福(ゆぶく)神社(箱清水)、尾張神社(朝陽)などでも、草相撲がおこなわれて、水内郡三才村(古里)の木曽川伝吉(のち五代目二十山)、埴科郡東寺尾村(松代町東寺尾)の君ヶ嶽(きみがたけ)助三郎など、江戸相撲に名を残す力士もあらわれた。