祭礼相撲は若者組によって運営された。松代領水内郡平林村(古牧)の若者連(れん)が書きついできた、宝暦六年(一七五六)から昭和三十六年(一九六一)まで約二〇〇年間の『平林若者連永代(れんえいたい)記録』が残されている。前のほうはまとめて書かれたが、文政六年(一八二三)からは、ほぼ毎年書きつがれている。若者組は、祭礼運営だけでなく、大きな葬儀の取り持ち、盆踊り・神楽(かぐら)・花火・芝居・相撲(すもう)など村の諸行事の運営にあたった。
文政八年に「芝居・角力(すもう)花札受け候も今相分からず」、翌九年には「八月、三百文、相撲花札返し、武井御蔵屋敷にて、当村九十郎殿名面(なづら)にて、同花札千田村・下駒沢村より遣わし候へ共、沙汰(さた)に及ばず候」とあり、このころには他村との相撲での花札(祝儀金品や招待状)のやりとりがあったことがうかがえる。天保飢饉(ききん)中は自粛していた相撲も、天保十一年(一八四〇)には「(八月二十三日)一、弐百文 相撲花手紙参り、御本堂前にて海老(えび)屋三次郎名面にて、一、下高田若者より角力花手紙参る、祝儀」とあり、翌年にも「(八月)一、弐百文 南長池村へ相撲花祝儀、一、銀壱朱 妻科宮角力花遣わす、一、金弐朱也、御本堂前に勧進(かんじん)角力花」とあり、各村での祭礼勧進相撲が復活している。
弘化三年(一八四六)にも「(八月十七日)千田村(芹田)角力興行に付き、祝儀二百文遣わし申し候」とある。同年の若者議定に「一、盆踊り、獅子舞、角力、花火等思い立ちこれ有り候節は、役本(元)へ伺い、三役人・頭立(かしらだち)の差図(さしず)請くべき事、たとい如何(いか)ようの事にても役人中の下知(げち)相背き候事、堅く致すまじき事」とあり、村役人の指示をうけての相撲興行が取り決められている。
嘉永七年(一八五四)に、平林村も永代四本柱角力免許を吉田村(吉田)利兵衛と稲積(いなづみ)村(若槻)(稲見山)勝五郎を世話人としてうけることができた。翌安政二年(一八五五)「(八月朔日)徳間村(若槻)より角力興行の手紙を遣わされ候につき青銅二十疋遣わし申し候」「(九月二日)吉田村祭りにて若者に手紙を遣わされ候につき、若衆一同参り、角力祝儀銀二朱、右会所へ遣わし申し候」とあり、村々若者仲間の角力交流はいっそう深まっていた。この年の十月二日、「稲積村稲見山勝五郎殿、角力免許取り持ち呉れ候につき、吉田追風門二十山(はたちやま)要右衛門、善光寺御本堂裏へ、角力宝篋塔(ほうきょうとう)相立て御奉加に勝五郎参り候、即ち若者相談の上、少々ながら金百疋遣わし申し候」とあり、現存する二十山要右衛門の宝篋塔建立の記事もみえる。
安政六年にも「北徳間村(若槻)角力手紙、稲見山勝五郎殿より参り、若者惣代より藤右衛門・作左衛門にて当百(とうびゃく)(天保百文銭)二枚御祝儀遣わし候、外角力世話人方へ同二枚御祝儀遣わし申し候」、慶応三年(一八六七)「(八月二十五日)川ばた組(古牧高田)若者中より、相撲興行につき、賑々(にぎにぎ)しく御取り持ちの程相頼まれ、一同相談の上、若者中にて参り、会所へ御祝儀金として二朱遣わし申し候」とあるが、いっぽうで慶応二年、水内郡の平出村(牟礼村)や三才村(古里)など飯山領一八ヵ村は、軍役御用金や賦役(ふえき)が課せられ、治安もよくないので勧進相撲などは自粛することを申し合わせている(県史⑦一九六六)。明治八年(一八七五)の美和神社(三輪)御遷宮による相撲興行知らせ以後は相撲記事はほとんどみられなくなり、芝居や神楽のほうが多くなっている。