善光寺境内の二十山供養塔

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文化九年(一八一二)の江戸相撲勧進元(かんじんもと)に二十山(はたちやま)重五郎(五代目)がいる。善光寺本堂裏にまわると、千人塚の西に江戸相撲年寄二十山の供養塔が三基ある。向かって左が六代目二十山要右衛門恒重(つねしげ)、中央が五代目二十山要右衛門政房(まさふさ)、その右は七代目二十山重五郎則利(のりとし)の供養塔である(写真30)。


写真30 善光寺境内の二十山供養塔

 五代目二十山は、水内郡三才村(古里)の出身で、通称駒沢重五郎という。草相撲力士で名をはせ、江戸相撲二十山部屋に入門し、木曽川伝吉を名乗った。寛政八年(一七九六)十月にはじめて序ノ口(じょのくち)二五枚目に登場したが、その後一〇年余も序ノ口に停滞し、文化元年三月場所の東序二段九枚目を最高位として、同三年十月に引退し年寄二十山を襲名した。はじめ二十山重五郎政房、のち要右衛門政房という。

 二十山は、引退後に経営の手腕を発揮し、文化十三年には本場所の勧進元の重職を占めるほどになった。郷里信州においても、全信州的に地盤を有していた浦風林右衛門から、高井郡の地盤を譲りうけ、高井郡長瀬村(中野市)に稽古場を設けて相撲力士を育てつつ、北信一帯に興行を勧めた。水内郡では、湯福神社に、文化九年九月の二十山重五郎政房の祭礼相撲永代四本柱免許状が残されており、蚊里田(かりた)神社に文政五年(一八二二)の奉納相撲免許状が残されている。文化十三年の柏原村(信濃町)では、江戸年寄荒磯(あらいそ)与五郎と二十山重五郎の連名で相撲興行をしている(『中村家文書』県立長野図書館蔵)。供養塔には「天保十四年(一八四三)七月十三日没、行年七十一歳」とある。この供養塔には北信各地の相撲関係者や若者中が多数名前を連ねている。


表11 天保14年(1843)二十山重五郎供養塔記載の北信地方相撲関係者

 二十山重五郎に育てられ、大関にまで出世した越中(えっちゅう)(富山県)出身の剱山(つるぎやま)谷右衛門が、六代目二十山要右衛門恒重である。安政元年(一八五四)没。七代目二十山を襲名したのが、北徳間村(若槻)出身の小剱(こつるぎ)浜吉、のちの鍔石(つばいし)文蔵である。あまり知られるところはなく、明治七年(一八七四)没。このように、文化年間から明治初年まで北信濃の相撲支配権を握っていた江戸相撲年寄が二十山であった。