前頭筆頭の君ケ嶽助三郎

501 ~ 502

郷土の江戸相撲力士として、埴科郡東寺尾村(松代町)出身の君ケ嶽(きみがたけ)助三郎がいる。文化十一年(一八一四)に若林伴蔵の子として生まれた助三郎は、幼時より相撲を好み、江戸に出て三代目境川浪右衛門に入門した。天保五年(一八三四)に前相撲をとり、翌六年に東序ノ口五枚目に君ケ嶽介松(すけまつ)の名で登場したが、一進一退を繰りかえし、はじめて十両格にあがったのはその七年後の天保十二年のことであった。三四歳の弘化四年(一八四七)十一月に、ようやく入幕を果たしている。入幕後は東前頭筆頭までのぼり、幕内在位七年一四場所で通算成績五〇勝四二敗二一引分の成績であった(『松代町史』下に小結とあるが、小結まではいっていない)。嘉永七年(一八五四)にペリーら米艦隊が再来航したとき、その乗組員を前にして江戸相撲幕内力士土俵入りがおこなわれ、君ケ嶽も参加し米俵を運んでいるが、同年八月に現役で急死した。

 松代の西念寺に君ケ嶽の碑がある(写真31)。表面右側に「江戸年寄」、中央には「君ケ嶽助三郎之碑」、裏面には「安政三年(一八五六)丙辰(ひのえたつ)五月・世話人肴町若者中・勧進元中若者中」、側面に「願人境川浪右衛門・若林伴蔵」と刻まれている。君ケ嶽は現役で急死したため、江戸年寄は名乗っていなかったが、四代目境川を継承していたことから、境川のもつ年寄の肩書きの継承者として顕彰の意味で「江戸年寄」と刻んだのだろう。


写真31 君ケ嶽助三郎の碑
  (松代町松代 西念寺)

 天保七年十一月の番付に「信州南原 神通力(じんつうりき)国吉 申(さる)の七歳、目方二十貫目、土俵入り仕り候」と書かれた神通力国吉は、本名栗田国吉で、文政十二年(一八二九)、更級郡原村(川中島町)の紺屋の息子として生まれた。幼時からの並はずれた肥満の体躯(たいく)が、巡業中の江戸相撲一行の目にとまり、江戸行司木村庄之助に引きとられ、七歳のときに、二〇貫目(七五キログラム)の巨体で土俵入りしたのである。この土俵入り姿は浮世絵師香蝶楼(こうちょうろう)(歌川)国貞によって描かれ、狂歌師立川焉馬(たてかわえんば)が「たぐひなき生まれながらの関取は神通力を得たる童子(わらべご)」と歌っている。その後も成長は止まらず、過度の肥満となり、ついにまぶたも腫(ふく)れふさがり、郷里に戻っていたが、万延元年(一八六〇)十二月に三一歳で没した。力士としての活躍はまったくなかったが、怪童力士として名を残した。

 ほかに、水内郡赤沼村(長沼)深瀬角右衛門の子房吉が一八歳で宇都宮へ出て、運送の仕事に従事していたところを江戸相撲の兜山(かぶとやま)に見いだされ、朝日野松五郎(のち松之助)となった。弘化四年(一八四七)十一月場所で西序ノ口二一枚目に登場し、八場所で二九勝九敗と好成績をあげ、安政四年(一八五七)一月に西幕下二六枚目まであがったが、安政五年の秋に病にかかり、同六年一月場所の西幕下三〇枚目を最後として廃業した。