江戸中期ころから煩雑な立花(りつか)様式に代わって「なげいれ花」や床の間にふさわしい「生花(いけばな)」があらわれ、生花の家元制度も一九世紀前半には確立した。経済的に豊かな農家の建築には床の間がつくられるようになり、また寺院での法要などでも、そこへ飾る花への需要の高まりから、百姓の余芸の一つとして生花も流行しはじめた。
更級郡塩崎村(篠ノ井)の富農宮崎平左衛門(権之丞)は、安永二年(一七七三)正月に京都の六角堂池坊専純(いけのぼうせんじゅん)に入門し、門人として永代帳に記録されている。一〇年あまりたって六〇余歳となった平左衛門にたいし、天明六年(一七八六)八月、池坊専純書の皆伝書(かいでんしょ)一巻があたえられた(県史⑦二〇〇六・二〇〇七)。平左衛門は寛政二年(一七九〇)に亡くなったが、菩提寺長谷寺(ぼだいじはせでら)より「遊花実翁居士」の号をあたえられ、長谷寺の過去帳にも毎月観世音の法要に献花したことが記されている(『宮崎本家と一族の歴史』)。生花が信濃の村々にはやりはじめる早い時期の事例である。
文化期(一八〇四~一八)以降になると、春秋軒一葉(しゅんじゅうけんいちよう)が創始した遠州流が生花(遠州流ではしょうかとよぶ)の代名詞のように地方へひろまった。遠州流は、本松斎(ほんしょうさい)一得(浅草遠州流)、春草庵(しゅんそうあん)一枝(下町遠州流)、貞松斎米一馬(よねいちば)(正風遠州流)などの流派にわかれた。貞松斎米一馬の文化十一年(一八一四)の「華道社中連名」という門人名簿には、八四五人が記され、うち五〇一人は江戸で、関東以外の四二人のなかに善光寺二六人、上田・小諸各一人がいる。とくに善光寺町が多いのは、一馬の直門で貞鶴斎島一秀が善光寺町に定住して生け花師匠をしていたからである。この社中には島一を許された門人が四人(島一草・島一翁(いちおう)・島一巣(いっそう)・島一河)、ほかに秀を許された門人(秀栄など)が二一人いる。島一秀は米一馬の門人中、四段階目の「世話補助」という資格で、序列は二三番目であった。(『上水内郡誌』歴史編、西山松之助『家元の研究』)。家元制度の発達とともに生花が地方へ普及していったことがわかる。
安政二年(一八五五)、水内郡平林村(古牧)宝樹院観音堂の修理完成の入仏式に、本堂生華世話人の華道師匠堀内徳右衛門(号は栄雲斎)とその社中の生華三五を飾った。この式場をとりしきった若者連から花連へ酒二升など謝礼を贈っている。徳右衛門は元治二年(慶応元年、一八六五)に亡くなったらしく(戒名栄雲庵釈氏宗順真義居士)その追善会(ついぜんえ)が元治二年(一八六五)四月十五日に宝樹院本堂でおこなわれた。若者組は式場をとりしきり、仕出しは相の木(三輪)のだるまやへ注文している。なお、平林村には墨林庵蘭喬(ぼくりんあんらんきょう)(堀内源右衛門)という寺子屋師匠がおり、嘉永六年(一八五三)に平林の五反幟(ごたんのぼり)「鶴舞千年梅 亀遊萬歳池」の文字を書き、同七年には同郡小鍋(こなべ)村の小田切神社(小田切)へ俳額を奉納している。
明治十一年(一八七八)に、前墨林庵蘭喬追善書画・詩歌・俳諧・挿花(そうか)会と堀内徳右衛門長水(先代徳右衛門子、雲洞)の二代墨林庵号披露の会が開催されることになった。その案内チラシには「書画連俳(れんぱい)挿花会 海内(かいだい)出席諸先生 水内郡平林村 墨林庵傭斎(ようさい)蘭喬居士追福 寅(とら)五月十九日 平林精舎(しょうじゃ)に於いて晴雨を論ぜず執行 四方大雅の君御貴臨冀望(きぼう)候也、 会主 傭斎堀長水・墨林庵生仏 再拝 会幹 寒岳園鵞雄(がゆう)・前島碧水(へきすい)・高野鄭庵(ていあん)、挿花会幹 高松斎一草・心雲斎如松、号披露 堀内雲洞 当日発句(ほっく)会出合角力 催主」とあり、村の文人が名を連ねている。会は宝樹院本堂でおこなわれ、正面左右に「追善挿花百瓶」が置かれ、花台敷物は緋縮緬(ひちりめん)大幅平敷物毛氈(もうせん)で、連歌(れんが)発句会宗匠席には月院社丿左(へっさ)(松代町西寺尾)・月庵時彦(若穂保科)・寒岳園鵞雄(がゆう)(豊野町石)が列席し、書画の席には御殿から三の間までに群集するようにした。平林村遠近の文人らが総出の追善会だったように思われる。
文政十年(一八二七)に出された『信上(しんじょう)当時諸家人名録』には、水内郡の風間村(大豆島)医師北村春庵が「和歌・俳諧・生花」、吉田村の一山(横山栄吉)と平林村の一瓢(いっぴょう)(菊池宗右衛門)が「挿花」とある。更級郡下氷鉋(しもひがの)村(更北稲里町)の庄屋の家に生まれた中島丈左衛門は、天保年間(一八三〇~四四)に父のあとをつぎ庄屋となり、松代藩の足軽として江戸に出て、正風遠州流を学んだ。帰郷して春林斎中一静と号し、近隣の門人を教え門人六〇〇人にものぼったという。安政六年(一八五九)に没したが、同年十月に社中らによって同村善導寺境内に碑が建てられた(写真33)。同寺には、同村の幕末から明治にかけての挿花師匠田口貞明斎(号貞明斎田一松横)の碑(明治三十三年建碑)もある。
更級郡横田村(篠ノ井)の挿花寿伯斎(じゅはくさい)は、松代藩の飛脚として江戸に出て、遠州流の寿伯斎一秀に花道を学び帰郷して師匠となった。同郡塩崎村(篠ノ井)や埴科郡の矢代・戸倉地域(千曲市)にも遠州流花道の伝統がつづき、水内郡神代(かじろ)(豊野町)付近には宏道流という花道流派がつづいた。幕末には、北信の花道家による花道書も出版された。善光寺では、生花による供養もおこなわれ、御花講(おはなこう)もつくられていた。天保八年(一八三七)四月、善光寺宿問屋小野善兵衛は、善光寺御花講中へ永代生立花のお花料として金一分を納めている(県史⑦二〇八九)。天保八年(一八三七)には「花瓶施主連名」の献額がされている(『善光寺絵馬』)。下氷鉋村の諏訪神社(氷鉋斗売(ひがのとめ)神社)や塩崎村長谷(はせ)(篠ノ井)の長谷観音堂にも挿花の献額が見られる。上氷鉋村(川中島町)の寺子屋師匠東福寺幸信の筆塚は正面に筆の絵が描かれ、碑裏には「東福寺幸信門人筆弟中」とあるが、遠州流の挿花や謡(うたい)を楽しんだ人でもある。