村の絵師

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江戸の画壇の影響をうけて、天明・寛政(一七八一~一八〇一)ころから松代藩絵師に三村養益・晴山などの優れた絵師があらわれ、その影響が直接、また間接的に周辺村々や善光寺町にひろがり、庶民の富裕化とともに絵師として生きる人びともあらわれるようになった。

 田中月耕は更級郡小島田(おしまだ)村(更北小島田町)に生まれ、父敬邦より画法を学び、諸国遍歴後帰郷し、松代で山水・花鳥画などをよく描いた。藩命で和算家・測量家の東福寺泰作の領内測量に同行し、精密な領内地図を清書し藩から賞された。万延元年(一八六〇)十月の「大森泰識、香風書」の肖像画がある(写真34)。弘化四年(一八四七)からの懐中録には、六月下旬に宗正(初代大橋宗桂(そうけい))像絹地一幅を描いた画料として青銅一〇〇匹(銭一貫文)を小島田村の六左衛門より受けとったこと、弘化大地震での荒れ地の絵図面作成を命じられ、山中(さんちゅう)におもむいたことなどが記されている(長野市博第四〇回特別展図録『信濃国絵図の世界』)。松代長国寺の第二の御霊屋(おたまや)内陣の花鳥図は月耕の手によるものである。川中島古戦場あとに月耕の碑がある。ついでながら、小島田村の六左衛門は将棋を好んでいたらしいこともうかがえる。安政四年(一八五七)七月、更級郡原村(川中島町)の小川祐之助は将棋に執心し、名人にたいしては飛車と香車落ち、素人には駒落ち手合いを大橋宗桂から免許されている(『県史』⑦一八九三)。村のなかに将棋のたしなみもひろがっていた。


写真34 田中月耕肖像画
  (更北小島田町 田中敬吾蔵)

 関愛山は埴科郡東寺尾村(松代町)に生まれ、松代藩絵師に土佐派を学び藩絵師となって多くの作品を残した。更級郡塩崎村(篠ノ井)の清水赤城は江戸で大西椿年(ちんねん)、福田半香に学び、のち京都や長崎に遊学し、さらに上海に渡って南画を得意とし、帰国後京都の久世(くぜ)家に仕えた。

 水内郡穂保(ほやす)六地蔵(長沼)に生まれた村松春甫(しゅんぽ)は、江戸で茶礼を牧野清済に学び、さらに画を狩野了承に学び帰郷して花鳥・山水・人物画などを描いた。一茶の有力門人でもあり、一茶の肖像も春甫の手になるものである。その庵号菫庵(きんあん)にちなむ『菫集』の序文を江戸の俳人夏目成美(せいび)が書いている。

 「ここにひとりの画人あり、しなのの国長沼といふ処に、すすきのほやつくり、葱(ねぎ)のはしらかりそめにかこひて、画にあそび句にあそぶ」「その画のおもしろさはまことの山水にむかいその人と手をたづさへてあそぶここちす。画と句とふたつながらのおもむきを得たるかな。主人姓は村松、名は春甫、此記つくりおくるものは随斉夏成美也 文化六年秋八月」とあり、画と句をたのしんだ文人春甫の姿をほうふつとさせてくれる。

 水内郡赤沼村(長沼)の武田松斉は、武田佐兵衛長男として寛政六年(一七九四)生まれ。風流を好み実弟常蔵に家督相続させ、はじめ絵を村松春甫に学び、画師として活躍した。三味線・義太夫もたしなんだ。弟常蔵も兄の風雅に影響され、江戸に出て彫刻師石川藤吉豊光(ほうこう)に伽藍(がらん)彫刻を学び、豊洽(ほうこう)の号を得て、帰郷して赤沼大田大社本殿・祠殿、妙願寺、赤沼北組の屋台などを手がけた。大田神社に保存されている一対の獅子(しし)は嘉永二年(一八四九)から三年にかけての常蔵の作で、子付(こつき)獅子は師匠の豊光の作である。武田佐兵衛三男の林蔵は文化十二年(一八一五)に生まれ、江戸に出て画家南嶺(なんれい)に学び、江戸で絵師として活躍した。常蔵子伊佐吉も初代常蔵のあとをついで、彫刻師となり、二代目常蔵として大田神社拝殿、同鳥居、神代(かじろ)村(豊野町)円徳寺、赤沼上組の屋台などの彫刻を手がけた(『長沼村史』)。

 長沼村の西厳寺(さいごんじ)第一九世住職成田空観は和歌を父公晴に学び、五柳亭佳晴と称した。画を好み成室道人または菊翁と号し、菊をよく描いた。明治元年(一八六八)没(『長沼村史』)。水内郡金箱村(古里)の生まれの刀根川錦嶺(とねがわきんれい)は、江戸で狩野雪洞に学び、幕末から明治にかけて狩野派の絵を多く残した(『古里村誌』)。

 神社仏閣の建築や仏像彫刻にも村の彫刻師の手になるものが生まれている。水内郡富竹村(古里)の峰村弥五助は、和泉正(いずみのかみ)と称し、元禄ころに海津城大手門、水内郡南堀村(朝陽)長命寺などを手がけたという。六代目弥五助は、更級郡八幡村(千曲市)八幡宮(武水別(たけみずわけ)神社)拝殿などを手がけた(『古里村誌』)。北信地方にも諏訪の宮大工立川流建築・彫刻の影響がみえ、武水別神社の龍、力神、鳳凰(ほうおう)のほか、埴科郡西条村(松代町)舞鶴山白鳥(しろとり)神社の神馬(じんめ)(嘉永元年、一八四八)なども第二代立川和四郎富昌の作である。埴科郡粟佐(あわさ)村(千曲市)の粟佐神社は、富昌の弟子善光寺町の文四郎の建築になるものである(細川隼人『立川流の建築』)。更級郡塩崎村(篠ノ井)の宮崎米蔵は、同村の天用寺・康楽寺、長谷観音境内山口社などの社寺建築を手がけた(『塩崎村史』)。