心学のひろがり

509 ~ 510

京都で石田梅岩(ばいがん)がはじめた心学は、儒学を軸に神道・老荘(ろうそう)・仏教などの教えを取り入れた庶民の人間としての日常実践道徳的な教えであった。知足安分・正直・勤倹などを平易な比喩(ひゆ)で説き、商人層と武士・百姓・職人層との人間的平等性を説いたため、庶民に普及した。梅岩のあとをうけた手島堵庵(てじまとあん)とその弟子中沢道二(なかざわどうに)によって心学はさらに全国的に普及した。

 信州に最初に心学をひろめたのは、埴科郡下戸倉村柏王(かしお)(千曲市)出身の中村習輔(しゅうすけ)であった。毎年、糸商(あきな)いで京都に出かけていた習輔は、手島堵庵の明倫舎に学び、安永六年(一七七七)ころから郷里で心学の講釈をはじめた。天明六、七年(一七八六、八七)ころ、自宅に恭安舎(きょうあんしゃ)という心学講舎を開き、教化活動を開始した。現存する『恭安舎社友記弐番帳』には、安永六年から文化二年(一八〇五)にいたる二九年間の延べ四三八三人にものぼる社友が記されている。その大多数は信濃国内の三九六八人で、国外で四一五人。そのなかに女性が八九一人(二〇パーセント)もいた。地域的には更級郡の戸部(川中島町)一〇八人、北原(同)一六人、南原(同)一〇人、四ッ屋(同)一三人、氷鉋(ひがの)(川中島町・更北稲里町)一四人など川中島地域、桑原(千曲市)二三人、長谷(篠ノ井)一三人、山平林(信更町)二六人などが多く、松代家中二七人も注目される。糸商人である習輔の営利を認める心学の教えに共鳴した街道筋の商人らを中心に、近隣の埴科郡や更級郡の入門者が増加していった。それぞれに地域の中心的指導者がいて、心学の普及につとめていた。

 松代藩士興津方副(おきつまさすけ)(号湖山)は、はじめ江戸に出て吉川惟足(よしかわこれたり)に神道や国学を学んだが、天明年間(一七八一~八九)に中村習輔に心学を学び、天明七年(一七八七)に松代に心学講舎匡直舎(きょうちょくしゃ)を開き、藩士らに心学を教授した。水内郡の心学講舎では、北尾張部村(朝陽)の浅野勘兵衛が自邸に開いた博厚舎(はくこうしゃ)が知られる。勘兵衛は寛政七年(一七九五)に京都の石門(せきもん)三世上河棋水(かみがわきすい)から博厚舎号をうけている。号名は『中庸』二五章の「久則徴、徴則悠遠、悠遠則博厚、博厚則高明、博厚所以載一レ物也、高明所以覆一レ物也、悠久所以成一レ物也」の「博厚は則ち高明」から採っている。勘兵衛の普及活動は史料が少ないが、子の勘五郎もまた匡直舎から寛政十年に心学琢磨札(たくまふだ)をうけている。同舎は文化年間(一八〇四~一八)に廃絶したようで(石川謙『石門心学の研究』)、二〇年ほどの活動であった。


写真35 石門心学「博厚舎」の碑  (朝陽北尾張部)