天保年間(一八三〇~四四)には、松代藩が上州の清水春斎と京都の近藤龍徳を招いて、領内での巡回心学道話をおこなわせている。清水春斎が天保二年(一八三一)水内郡奈良井村(中条村)でおこなった道話には、三月二十一日の昼に一三四人(男一〇六・女二八)、夜四〇人(男三三・女七)もの聴衆があった。奈良井村の文化六年(一八〇九)の人口は六四一人(『松代領封内人員』)であったから、「清水俊(春)斎先生御廻村、心学道話成し下され、村中老若男女(ろうにゃくなんにょ)残らず罷り出(まかりい)で聴聞つかまつり、有り難き仕合わせに存じ奉り候」(中条村『宮脇家文書』・『上水内郡誌』歴史篇)とあるとおり、村中全戸から老若男女が出席した状態であった。同年十月、埴科郡力石村(千曲市)滝右衛門が病気のため、代わって清水春斎が水内郡坪根村(七二会)へ心学道話の講義に出かけた。十月十二日の昼夜で男九九人、女三七人が聴聞した(『七二会坪根区有文書』・『七二会村史』)。これも村中の老若男女が聴聞したとあり、山村では依然として盛んであった。
近藤龍徳は、京都の楽行舎の講師で、天保十三年の春、一〇〇日間善光寺に滞在し、ふたたび天保十五年(弘化元年、一八四四)に来て、一月から四月まで安曇(あずみ)・水内・高井三郡を回村巡講している。そのさいの「信濃国安曇・水内・高井三郡社中名付」には五六人が記されている(『上水内郡誌』歴史篇)。
その後の指導者により、心学の理念基盤が神国・憂国思想、儒教と仏教思想を調和したものなどへと変化するとともに、武士の庶民教化策として採用されることにより、思想が停滞し、庶民にあきられ衰退した。しかし、社中での共同討議は、庶民の知的レベルを高めたであろうし、社中合意による組織運営は村政での合議的運営をもうながしたと考えられる。