村や町の和算

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年貢や村入用勘定における算用能力は村役人にとって必須(ひっす)であった。より高い学問的和算を高名な和算家に学ぶものもあらわれ、帰郷したかれらに学ぶ村在住の和算家もあらわれる。文政三年(一八二〇)の松代藩の布達のなかに「近来は小前の者のうちにも筆算達者のものも追々出来(しゅったい)候につき」(『東寺尾区有文書』)名主や頭立(かしらだち)の不正を指摘して訴訟を起こすものがいるとある。学問が権利を保障する手段となっていたのである。

 和算家が師から免許状をうけるときには、師法にしたがい他言(たごん)しないことを神に誓(ちか)い血判または捺印(なついん)をする形式だったから、京都の宮城(みやぎ)清行からは宮城流、江戸の関孝和(せきたかかず)の門流は関流、出羽(でわ)国最上(もがみ)地方(山形県)出身会田安明(あいだやすあき)は最上(さいじょう)流、大坂の宅間(たくま)能清は宅間流などとそれぞれ流派を形成し、その門流が地方へも伝播した。関流が主流であった。免許制は宝永元年(一七〇四)ころから始まったようである(『明治前日本数学史』②)。

 善光寺平へ和算をもたらした最初の人物は、更級郡御幣川(おんべがわ)村(篠ノ井)の宮本九太夫正之(まさゆき)である。元禄年間(一六八八~一七〇四)に京都で宮城清行に学び、郷里に宮城流を伝えた。直弟子(じきでし)に高井郡桜沢村(中野市)の藤牧弥之助美郷と松代藩士入(いり)弥左衛門貞営(ていえい)(庸昌(ようしょう))がいる。藤牧美郷の門人に更級郡上氷鉋(かみひがの)村(川中島町)の百姓北沢市郎右衛門治正がおり、北沢治正門人に赤田常右衛門百久、水内郡窪寺(くぼでら)村(安茂里)百姓の山田荊石(けいせき)、江戸の中橋広小路で和算を教授した北沢仙右衛門奉美らがいる(赤羽千鶴『信濃の和算』)。

 宮本正之門人の松代藩士入庸昌は、正徳二年(一七一二)に藩主真田幸道(ゆきみち)に仕えて、勘定役を勤め、籾五〇俵三人扶持を給された。庸昌の書『角総算法』(寛保三年(一七四三)武江書肆(ぶこうしょし)尾張町二丁目和泉屋儀兵衛刊)は、正多角形の三角形から二五角形までの角中径(外接円の半径)、平中径(内接円の半径)、面積の計算方法についての一般式を考案したというもので、和算史上にも注目すべき内容の書である(『明治前日本数学史』③)。入庸昌の子貞喜もすぐれた和算家である。


写真36 入庸昌の『角総算法』  (日本学士院蔵)

 正徳五年(一七一五)に生まれた山田平右衛門荊石は、宮城流の算学を北沢治正に学び、『今和漢算法』を著わした。荊石の学統は窪寺村(くぼでらむら)の青木包高(かねたか)、水内郡赤沼村(長沼)の小林松順、同郡鬼無里村(鬼無里村)の寺島宗伴(そうはん)ら多くの門人によってひろめられた。

 水内郡神代(かじろ)村(豊野町)の藤沢久五郎は宝暦七年に山田荊石から算法秘伝の免許をうけ、その門人和田太三良治は同九年正月に藤沢近行にあてて誓紙を差しだしている(県史⑦一九六〇)。宝暦七年八月吉日に荊石から算法の免許をうけた更級郡石川村(篠ノ井)の穂刈吉右衛門久重は、山田荊石にあてて「算法・天元術ならびに演段位につき御相伝下され候段、向後(こうご)同門たりといえども、免許これ無きうちに他見・他言つかまつるまじく候御事、猶(なお)もし相背くにおいては神明の御罰を蒙るべきものなり、依って誓約くだんの如し」という算法相伝の誓紙を差しだしている(『県史』⑦一八三五)。また明和八年(一七七一)の更級郡二ッ柳村(篠ノ井)の西村忠蔵から久重あての誓紙が残されており、門人もいたことがわかる。久重の遺品には、『算法明元流』『算法手鏡』など算書のほか、「授時安永七戊戌(つちのえいぬ)年暦大小ヲ知ル術求ル帳」、「高山深谷ルフロ口伝書」など暦や測量術の関連もあり、測量にも実際に行ったとみられる。ルフロとは測量用の拡声器のようなものである(『信濃の和算』)。

 久保寺観音正覚院(しょうがくいん)(安茂里)境内の円通殿には、天明元年(安永十年、一七八一)に山田荊石門人四四人によって奉納されたものと、享和三年(一八〇三)に青木包高門人九人(千田村(芹田)の一人、善光寺町の五人、安茂里地域の三人)が奉納したものの二つの算額がある。前者は県下で二番目に古い。隣村平柴(安茂里)の公民館にも算額が残されている。


写真37 青木包高ら奉納の算額
(安茂里 久保寺観音正覚院)

 青木包高は荊石のあとをつぎ、天明元年(一七八一)に和算塾を開き、和算のほか読み・書き・算盤(そろばん)などを教授した。包高没後も青木塾はつづき、明治六年(一八七三)の廃塾までに約一五〇〇人もがここで学んだという(『安茂里史』)。更級郡岡田村(篠ノ井)若林吉之丞もまた青木包高に学んだ一人である。文化六年(一八〇九)に青木包高から「厘ニテ除ク時ハ一級進ム也」などの算法の教えをうけている(『県史』⑦一九八七)。同郡上氷鉋村の北沢市郎左衛門は寺子屋師匠のかたわら宮城流和算家として活動した。同村の北沢亀太も長谷川善左衛門閲『算法新書』(天保二年刊)などで和算を研究し教授した(『上氷鉋誌』)。水内郡箱清水村(箱清水)の内田善左衛門は、寛政年間(一七八九~一八〇一)に山田荊石と父の藤吉に学び、和算のほか謡曲・俳句・剣道に高い技量をもっていた。

 水内郡赤沼村(長沼)の医師小林松順も和算家として著名である。はじめ山田荊石に宮城流を学び、長じて江戸に出て藤田貞資(さだすけ)について関流和算を学んだ。のち長崎に遊学し医術を学び、修行して帰国し医業を開業するとともに関流和算を善光寺平にひろめた。天明四年(一七八四)、山田荊石・小林松順の連名で算額を善光寺へ奉納した。また寛政七年(一七九五)にもつぎの算額を善光寺に奉納したことが、藤田貞資閲『神壁(しんぺき)算法』上巻に記されている(図は略)。

  今有如図四斜内外画円其外円径一十二寸、只云四斜之内両斜相乗一百一十二寸 問内円径幾何(いくばく)

     図 答曰 内円径七寸

  術曰置外円径自之加 只云数得数平方開之以除只云数得内円径合問

            関流藤田貞資門人 信州赤沼河原新田住 小林松順高辰(たかとき)

   寛政七年乙卯十一月

 小林松順の後輩として江戸の関流藤田貞資門に入ったのが水内郡大倉村(豊野町)の竹ノ内(武内とも)坦度道(たいらただみち)で、帰郷して関流をひろめた。度道は同郡富竹村(古里)の門人山下喜惣太宣満に和算を教え、山下門人の同郡金箱村(古里)利根川豊八郎昌保、同郡北徳間村(若槻)田中染五郎言度、高井郡村山村(須坂市)黒岩政右衛門賢澄、水内郡西富竹村(古里)小林久米之助らは、天保四年(一八三三)に善光寺へ絵馬を奉納した。度道の孫の度径(ただみち)も和算家として幕末から明治にかけて六〇〇人といわれる門弟に教えた。

 文政十一年(一八二八)、竹ノ内度道門人小玉村(牟礼村)川口儀右衛門らは、正確な三角測量で一二〇〇分の一の水内郡小玉村(牟礼村)分間絵図を作成した。この絵図は間竿(けんざお)の部分に赤い点をほどこして伊能図と同様な精密な測量で作成された。計人(はかりにん)は度道門人の同郡芋川村(三水村)川口儀右衛門で、ほかに縄張(なわばり)として一三人の名がある。つまり、川口儀右衛門の指図のもと、一三人が縄を張ったり、間竿をもって走りまわってこの正確な絵図がつくられたのである。

 鬼無里村の寺島宗伴は、文政十年(一八二七)から明治十五年(一八八二)まで、延べ九一九人の門人に、読み書き算盤(そろばん)のほか、諸礼・活花(いけばな)・謡曲などを教え、村の和算家として生涯を終えた。安政二年(一八五五)に宗伴を顕彰する算子塚が門人によって建てられた。村民の知的欲求は手習いのみにとどまってはいなかった。

 水内郡三才村(古里)に三代にわたる和算家がいた。安永五年(一七七六)生まれの田原小埜右衛門(このえもん)は、山田荊石の流れをくむ三才村の和算家の駒沢五郎右衛門に師事し、のちに大坂の和算家吉田玄魁(げんかい)の宅間流を学んだ。『求稜(きゅうりょう)神壁算法』、『続神壁算法』などを研究し、門人らに教えた。現在その用書は学士院に四〇冊ほどある。天保三年(一八三二年)に門人五人とともに善光寺へ算額を奉納した。小埜右衛門の子田原清兵衛、孫善三郎も和算家として活動した。善三郎は、はじめ祖父に学び、江戸に出て関流和算家長谷川善左衛門弘(ひろむ)に学び、長谷川弘閲『算法通書』に善三郎作の問題が出ている。四年の修学により免許皆伝を得て郷里に帰り、和算を指導した。のち法道寺(ほうどうじ)善とも交流し、明治期には教育者として活動した。