最上流和算と松代

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出羽国出身の会田安明(あいだやすあき)は、関流と対抗する最上(さいじょう)流和算家として名高い。松代藩士町田源左衛門正記(まさのり)、海沼与兵衛義武が、会田安明に直接学び、関流にかわって最上流を北信にひろめた。この契機は、伊能忠敬(いのうただたか)の信州調査にあった。

 伊能忠敬は、享和二年(一八〇二)、文化六年(一八〇九)、同八年、同十一年の四回、信濃測量をおこない、地元の測量家も忠敬の宿舎を訪ね学問的交流をしている。忠敬は享和二年の「測量日記」にこう書いている。「(十月八日)徳間村(松代領、家八十軒、駅次中十日)(右ニ山田村、松代領、家十五軒、左ニ西条村ノ内稲倉、家十七軒)、稲積村(松代領、家五十五軒、駅次上十日)、吉田村(松代領、家百八十軒)、押鐘村(同領、家二十三軒)、下宇木村(同領、家丗六軒)、三輪村(同領、家二百軒)、左大山ヘ二里余、右山ヘ一里斗(ばかり)、新町より一里、合五里半、善光寺大門町、八ッ後ニ着、止宿藤屋平左衛門(高野氏なり)、此夜雲間測る」(県立歴史館展示図録『蘭学万華鏡(まんげきょう)』)とあり、善光寺町で緯度計測のため星の観測をおこなっている。忠敬は二回目の文化六年には中山道を西へ、第三回めの文化八年には伊那街道から甲州街道に抜けた。第四回目の文化十一年、野麦峠から善光寺道を北上し、測量しながら四月二十九日に善光寺町に入り本陣藤屋平五郎宅に止宿した。

 町田正記は、享和二年の調査をみて、忠敬の測量が精密なことに感嘆し、教えを請(こ)おうとしたが、旅中のため果たしえず、のち江戸勤番になったとき、天文方高橋至時(よしとき)や伊能忠敬に教えを請うとともに、伊能忠敬の知人で最上流和算家会田安明に学び、文化十二年八月免許を得たという(赤羽千鶴『信濃の和算』)。

 会田安明の『増補当世塵劫記(じんこうき)』の自序末に「門人町田正記 海沼義武校訂」とあり、正記・義武が安明の直接の門人であったことがわかる。安明没後、江戸浅草の浅草寺(せんそうじ)に建てられた算子塚の裏面に最上流高弟三三人の名前が刻まれ、そのなかに「信州松代藩町田源左衛門正記 同海沼与兵衛義武」「信州松代藩中島祐左衛門政昇 同宮本市兵衛正武」と「信州善光寺大門住岩下半兵衛愛親」の五人の名がみえる。


写真38 会田安明算子塚裏面の町田正記 海沼義武部分
(東京都台東区金竜山浅草寺)

 松代の最上流和算は町田正記によってひろめられた。弘化四年(一八四七)の善光寺大地震のとき、岩倉山の崩壊で犀川の水が止められたため、その水量と決壊の期日を精査して海津(松代)城の基脚におよぶばかりと計算し、そのとおりになったという。著書には『地理測量集二』『再訂水盛術一』『測量地明集二』などがあり、門人には中島政昇、宮本正武のほか小野左金太、池田定見(さだみ)、野池嘉助、東福寺泰作、寺島宗伴(そうはん)らがいる。

 海沼義武は、通称与兵衛のち八十郎。正記とともに会田正明に学び、松代藩勘定吟味役をつとめ、右筆(ゆうひつ)をかね、書や画もよくした。著書に『水盛術起源』がある。中島政昇は通称祐左衛門といい、松代藩勘定役をつとめた。宮本市兵衛正武は、信州宮城流の祖宮本正之の子孫で、松代藩士で正記に最上流和算を学んだ。善光寺町の岩下半蔵愛親は、青木包高(かねたか)門人として久保寺観音の算額に名前をのせたが、正記から最上流の教授をうけた。愛親の門からは善光寺後町の山田有水・喜兵衛父子、水内郡小市村(安茂里)の岡村半六郎らが出た。小野左金太は諱(いみな)を忠義という。文政元年(一八一八)勘定役見習い、天保二年(一八三一)勘定役となった。町田正記から数学・規矩術(きくじゅつ)、測量術の皆伝(かいでん)を得た。

 正記の門人のなかで和算教育を組織的におこなったのが松代藩士池田定見である。通称三七。明治十六年(一八八三)の私塾寺子屋調べによれば、埴科郡西条村(松代町)にあった定見の私塾は、文化十四年開業、全盛期は天保八年、延べ生徒数男二〇〇人であった。授業の順序は八算(算盤での一けたの割り算)を終えてから見一(けんいち)(除数が二桁以上の割り算)に移り天元術(てんげんじゅつ)(算木を用いた方程式解法)からより高度な羃式(べきしき)(累乗をふくむ式)などの数式計算、規矩術(さしがねを用いて材木に墨をつける建築術)や測量法、さらに三角三斜整数術・算法的用法・算法極数術・円理弧背術・算法約術・算法測円法などの階梯があった。初級から高度な和算まで学べるしくみになっており、多くの門人が育った。

 更級郡東福寺村(篠ノ井)の東福寺泰作は、宮城流を学んだのち池田定見について最上流和算を学び、天保十二年に最上流免許を得た。測量に秀で、松代藩の足軽として、嘉永・安政(一八四八~六〇)のころ藩命で領内六〇〇〇分の一の地図を作製して献上した。その功績で足軽小頭に進み、安政四年(一八五七)には沓野(くつの)(山ノ内町)から秋山(栄村)を踏査し、地図を作製し藩に提出した。ペリー来航以後は、佐久間象山にしたがい沿海の測量にも従事したと伝えられる。

 町田正記門下には野池嘉助という和算家も出た。正記に最上流和算を学び、更級郡下氷鉋(しもひがの)村(更北稲里町)の野池氏をつぎ、藩に勘定役として出仕し、暦算や測量にも従事した。のち家居し、農業のかたわら著述や測量に従事した。

 また同郡横田村(篠ノ井)出身の鳥羽南海なる人物は、文化七、八年ころ、江戸麻布谷町へ住居し、「鳥羽流算法指南」の看板を掲げていた(『朝陽館漫筆』)。門人が六〇人ほどいたらしい(『更級郡埴科郡人名辭書』)。