病気と民間薬

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江戸時代初期には、村内には馬医はいても人間の病気をみる医者がおらず、まじないなどの呪術(じゅじゅつ)的医療がほとんどであった。宗教には精神の癒(いや)しとともに本来的に健康への関心もあったから、修験(しゅげん)も薬をつくっていた。寛永三年(一六二六)十二月、飯縄(いいずな)大明神に伝わる薬法呪書を松原七右衛門尉(じょう)景明・清水吉右衛門尉盛繁・松平善左衛門尉直政・酒巻儀兵衛尉重勝・海野宮内尉(くないのじょう)久慶ら修験がうけている(『県史』⑦一八一三)。民間薬製法も秘伝として伝えられた。水内郡青木平村(中条村)の山野井友右衛門は正徳(しょうとく)三年(一七一三)に加減四物湯や白蛇散などの早河流秘伝製法を書きとめている(『県史』⑦一八二九)。

 旱魃(かんばつ)のあとは、食糧不足による栄養不良や衛生状態の悪化などの原因で病気にかかりやすかった。享保(きょうほう)十八年(一七三三)の旱魃のときには、六月から八月にかけて、流行風邪(はやりかぜ)や痢病(りびょう)(激しい腹痛や下痢をともなう赤痢などの病気)が流行した。九月十日の更級郡今井村(川中島町)庄屋吉右衛門の代官あて報告によると、今井村の人口七七一人のうち死亡七人、治療中三八人、治療を終えた者七一四人で、まったく病気にかからなかったのは、わずかに一二人という猛烈な流行病であった。九月十八日の報告では、川中島八ヵ村で九二人もが亡くなっている。死者の内訳は稲荷山村(千曲市)二五人、塩崎村(篠ノ井)二三人、岡田村(同)九人、上氷鉋(かみひがの)村(川中島町)八人、今里村(同)九人、今井村(同)七人、戸部村(同)七人、中氷鉋村(更北稲里町)四人であった(『小林家文書』長野市博蔵)。

 善光寺奉納絵馬のなかには眼病平癒の祈願やお礼の絵馬も数点ある。氷鉋村のワエは長年眼病で難渋しており医療を尽くしたが効果がなかったのに、水内郡風間村(大豆島)の念仏行者北村小三郎が善光寺如来の「御名号(ごみょうごう)」を授けたところすぐに全快したので、明治十三年(一八八〇)にお礼の絵馬を奉納している。ほかにも眼病平癒のほか脚気、胸痛、痛風などが治ったお礼絵馬も残されている(善光寺事務局『善光寺絵馬』)。


写真39 下総(しもうさ)国(千葉県)の梁天(りょうてん)両目開眼お礼絵馬
  (善光寺事務局蔵)