医薬の普及と神農講仲間

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商品流通にともない、薬草・薬種への民間需要も高まっていた。一八世紀後半には、越中富山の売薬が北信濃に流通していた。明和九年(安永元年、一七七二)には、松代領更級郡羽尾村(千曲市)の佐次右衛門らが、「しゅきさん・人しん・五番・痢病丸・反魂丹(はんごんたん)・あたえん」などの富山売薬を取り扱っていることを職奉行所へ届けでている(『県史』⑦一〇一六)。富山売薬商人「信州組」は弘化元年(一八四四)に八二人が参加するほどになり、信濃は富山売薬の主要販路となっていた。このような富山売薬人の定期的な来訪は、村内に医薬への関心と需要を大いに高めたにちがいない。寛政十二年(一八〇〇)、更級郡桑原村(千曲市)名主柳沢忠蔵が、同村へ松本城下から杏仁(きょうにん)や桃仁(とうにん)などを買い取りに来る者や、近辺の村々で白朮(びゃくじゅつ)や芍薬(しゃくやく)を掘りとり松本城下へ持ちだし薬草稼ぎをする者がいることを書きとめている(『県史』⑦八〇〇)。

 松代領に隣接する上田藩川中島領岡田村(篠ノ井)の有力百姓寺沢富興の文政三~七年(一八二〇~二四)ころの「万(よろず)仕入れ覚」に、「一疫病を避くるかぎ薬 雄黄(ゆおう)小 白鶏頭花大 焔(えん)しやう 雄黄三分の一 右三味細末としてこよりの中にたくわひ火をうつしかぐべし、疫病を除く事妙なり、惣じて六月土用に入などかぎて邪気を避くるなり」と、疫病回避の嗅ぎ薬のことが記され、有力百姓の薬への関心がうかがえる。また同家で寛政六年(一七九四)に一家相伝のため書かれた「家伝修身録」に、「薬用致し候ハゝ、良医師を頼み、油断なく療治致すべく候、譬へ流行(たとえはやり)候ても風来の医師、或ハにわか医師衆、或ハ妙薬等ハ必ず無用之事、慎むべし」「唯薬ハ良き医師衆を頼み用ひ申すべく候」と良医師と医薬への認識が示されている(『更級埴科地方誌』③下)。

 文化十年(一八一三)の「薬種仲間神農講取極(しんのうこうとりきめ)・得意方名面(なづら)帳」(『県史』⑧六三四)から、薬種の広範な普及の実態をみることができる。これは北信地方の薬種問屋らが神農講という仲間の講をつくり、毎年三月十日・六月十日・十月十日の年三回、最寄りの仲間が寄りあい、公儀お触れを守るために情報を交換したり、不良債務者防止のため、得意先の帳面を仲間で見せあうことにしたのである。

 帳面に記されている得意先はつぎのようであった。松代の島屋平左衛門分が九五人、稲荷山(千曲市)の伊勢屋佐兵衛分が五一人、同所の鍋屋(なべや)長左衛門分が四二人、須坂の山城屋(やましろや)八右衛門分が八九人、同所の牧屋武右衛門分が三三人、小布施の高津甚右衛門分が二八人、善光寺の小升屋(こますや)与五兵衛分がもっとも多く一〇七人、同所の小升屋徳兵衛分が九五人、同所三好屋権右衛門分が三六人、同所三好屋平右衛門分が三七人、同所押田屋仙蔵分が一九人、同所小升屋清八分が一〇人、同所島屋長八分が二〇人、合計六六二人である。このうち各問屋重複分を除くと五〇九人となる。松代の島屋の得意先のうち五六人が藩医と藩士であり、須坂の山城屋には一一ヵ寺が記載されている。善光寺の小升屋与五兵衛分には善光寺医師のほとんどが網羅されている。青山仲庵(ちゅうあん)・堤仙庵(せんあん)・山崎玄忠・須田宗軒・須田立活(りゅうかつ)・丸山元智・丸山元瑞(げんずい)・仁科玄周・山本左仲・馬島玄也・荻原元川・関泰仙・小山玄達・小林内蔵丞(くらのじょう)・久保寛仲・山本友三・円乗院隠居・常明坊・宮本玄益・押田屋喜八の二〇人である。

 この得意先五〇九人のなかに、院坊や寺隠居もふくむ寺院関係者が四〇人(七・八パーセント)、伊勢屋などの屋号がついて商家と推定されるもの一〇人、修験者(しゅげんしゃ)三人、浪人二人、神官二人が見いだされる。残り四五二人の大多数は医師である。医師が大半であることは当然であるが、寺が薬種の得意先としてあげられているのは、専業医師が存在しない地域では、僧侶などの在村知識人が医療の一端をになっていたことを示している。また医薬への関心と需要が、専業医師にだけでなく、民間にもひろく存在していたことを知りうる。

 薬種業者は広範な取り引きをおこなっていたから、医学情報にも詳しかった。紀伊国(和歌山県)の名医華岡青洲(はなおかせいしゅう)の評判を京都麩屋町(ふやちょう)の三原屋利兵衛に聞いた更級郡原村(川中島町)の大黒屋文五郎と、善光寺大門町薬店小升屋与兵衛の紹介で、享和三年(一八〇三)に同郡小森沢村(同)出身の医師番場道接(ばんばどうせつ)がはるばる紀伊国まで出かけて入門している。道接は信州最初の青洲門人であり、帰郷後郷里で医業を開始している。