医師の修行と医学輪講

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医薬への需要増は医師の増加とあいまっていた。宝暦十年(一七六〇)四月二十八日に松代藩医立田玄杏(りゅうだげんきょう)は医学稽古、修行の功ありとして新たに二〇〇石を下し置かれ、今後、外御医師同様、つとめることとなった(『朝陽館漫筆』)。同年九月に、厚木伯庸(はくよう)が医術修行のために上京したいと願いでた。類例はなくほんらいなら認められないが、渋谷玄仙と立田玄道もともに申し立てたので、今回は願いのとおりこれを許可した(『朝陽館漫筆』)。宝暦期(一七五一~六四)ころから都への医学修行がさかんになってきたことがうかがえる。

 他国での医学修行を終えた町医には藩医になるものも増加した。町医から召しだされて医官に列した医師に宮島通珉(つうみん)・阿藤通逸がいた。通逸は高井郡大俣(おおまた)村(中野市)の出身で、医業で松代に往来すること四〇年、松代での療治がいよいよ多くなったので、ついに御安(ごあん)町に居住するようになって数年、寛政七年(一七九五)、通珉と同じく藩主への御目見(おめみえ)を許され、寛政九年冬、藩医に列し、それぞれ粟(ぞく)五口(五人扶持)を賜わるようになった(『朝陽館漫筆』)。

 蘭方医学、漢方医学ともに漢籍の素養が必要であった。年次不詳であるが、松代藩医立田楽水(りゅうたらくすい)(玄道)のもとへ上田藩の池田素庵(そあん)という医師が遊学を願いでた。その願書によれば、素庵は江戸へ蘭学を学びにいったところ、蘭方修行についても直接蘭方医学を学ぶ前に、病名や病症を知るために漢方医書を読む必要があると江戸の蘭方医にいわれ、立田楽水のもとへ学びにきたのである。(『矢沢家文書』真田宝物館蔵)。

 医学研修や医師の養成のため、文化六年(一八〇九)八月、松代藩は領内に、未熟の医師もいるので医学輪講席に出席するように心がけること、これまでに登録されている医師や医師修行中の者は、輪講に出席して修行の程度で一本証文と医家免許をあたえると触れを出した。

 この医学輪講は、毎月十二日に領内の医師を召集し、学問所でおこなわれた。この布告に応じた医師は、『文政十亥年五月 毎月十二日学問所へ罷り出で医学講釈聴聞の医師・医道心掛の者共名面(なづら)帳』(以下名面帳)と『文化六巳年八月 医学・医業心掛の者共名面書控』(以下名面書)という二冊の帳簿(『松代真田家文書』国立史料館蔵)によれば、『名面帳』には医学輪講に出席している医師九四人、医学を心がけている者一二人、文政十年(一八二七)から文久三年(一八六三)までの順次受講希望者一九人の計一二五人が載せられている。『名面書』には文化六年八月段階の一本証文医師三八人(うち嫡子四人、極老(きょくろう)三人、病人三人)、在医師五三人(うち極老七人、病気三人)、医学心懸候者(こころがけそうろうもの)二〇人の計一一一人と、文化六年十月から天保七年(一八三六)十月までの受講希望者一七人の総計一二八人が載せられている。藩医や領外医師、講釈を希望しない医師などは記されていないので、これらが松代領内医師のすべてとはいえないが、その大半を占めていよう。

 両帳に苗字が記載されている一本証文を得た専業医師は、三四ヵ村でみられるので、当時の領内二四〇ヵ村の一〇分の一、つまり一〇ヵ村に一軒の割合で村医師が存在していた。一本証文というのはほんらいは宗門人別帳における一本立ち(独立)証文のことであるが、医師については藩による医業独立免許の意味あいをもつようになった。

 文化六年八月段階の医学を心がけている二〇人のうち、四人が帳下(ちょうした)とよばれる下層身分の百姓の出身で、医師の子二人を除いた医学修行者の多くも百姓出身と推察される。嘉永元年(弘化五年、一八四八)七月二十六日付けの医師中村周徹から藩役人山寺源大夫にあてた届け書をみると、水内郡橋詰村(七二会)の虎之助は親が病身で百姓を勤めがたいので周徹方で医業を心掛けたいと願いでている。病身というのは転職願いの常套句(じょうとうく)であろうが、下層百姓出身医師の一類型といえよう。