平賀源内と青山仲庵

525 ~ 526

蘭学というのはオランダ語を通じての西洋研究の学問で、安永三年(一七七四)杉田玄白(げんぱく)らの『解体新書』の刊行以後発達した。宝暦期(一七五一~六四)、善光寺東町に物産好きの青山仲庵(ちゅうあん)(茂恂(もじゅん))という医師がいた。蘭学者平賀源内の主宰(しゅさい)する宝暦十二年(一七六二)の『東都薬品会』へ水内郡小市村(安茂里)産白堊(はくあ)(石灰)など信濃の物産を出品し、翌年刊行された『物類品隲(ひんしつ)』の校訂者となった。安永四年十月二日、四一歳で没している。源内の師田村藍水(らんすい)と親しかった。宝暦十三年四月、水内郡笹平村(七二会)富蔵が松代奉行所へ緑青(ろくしょう)製造用青土の山出し願いを出したが、その願書には田村藍水が昨年八月に善光寺東町青山仲庵方に逗留(とうりゅう)したとき、同郡栃原(とちはら)村(戸隠村)の緑青土を御覧に入れたら、江戸表へ出したら売れるというので、山出し等をご許可願いたいと書かれている(『県史』⑦九三一)。仲庵から田村藍水を介して緑青土という珍奇な物産が商品として江戸市場へ売りだされようとしていた。この背景に、宝暦期の博物学の盛行、藩領域をこえた商品生産・流通、貨幣経済の発展を読みとることができる。


写真40 青山仲庵校訂『物類品隲』(神戸市立博物館蔵)
  (県立歴史館図録『蘭学万華鏡』より)

 安永六年には、平賀源内から江戸にいる松代藩医立田玄道(りゅうたげんどう)にあて、エレキテルの実験などにつき書状が届いた。エレキテルとは摩擦による起電機のことで、松代藩邸で七月三日に実験をする予定だったのが六日に延期されたが、松代家中もこの実験をみたので、江戸の物産学の発達を直接体験することができた。宝暦から安永期(一七七二~八一)の蘭学の興隆は、こうした医学・本草(ほんぞう)学・博物学などへの実学的関心と、商業資本のいちじるしい発達によりもたらされ、田村藍水や平賀源内などの活動は、ただちに松代地方医界にも伝えられていたのである。