蘭学は、寛政期(一七八九~一八〇一)以降、江戸・大坂・京都・長崎を拠点に全国へひろがった。文政六年(一八二三)には、シーボルトが蘭館付き医師として来日し、翌年には長崎に鳴滝塾(なるたきじゅく)を開き、外科診療とともに医学教育をおこなった。その名声を聞き、陸奥(むつ)(青森・岩手・宮城・福島県)の高野長英、肥前(ひぜん)(佐賀県と長崎県の一部)の伊東玄朴(げんぼく)、尾張(愛知県)の伊藤圭介(けいすけ)らをはじめ全国から門人が集まった。
松代領更級郡上山田村(千曲市)の上層百姓宮原良碩(りょうせき)も、新しい医学の勉強をしようと文政九年にはるばる長崎にまで旅立った。長崎ではオランダ通詞(通訳)で蘭方医(らんぽうい)の吉雄幸載(よしおこうさい)の塾にはいり、医学修業をしていた。そこへシーボルトがやってきて脳腫瘍(のうしゅよう)の外科手術をおこなった。文政十年のことだった。良碩はこの手術を実見し『シーボルト直伝方治療方』(天理大学天理図書館蔵)として記録した。最新の蘭方医学を学んだ良碩は、帰郷後、郷里で開業して医療活動をおこなっていた。弘化四年(一八四七)、良碩は、打撲の負傷者を診療し、白明膏(はくめいこう)、巻木綿、カンフル水薬、テンキテーエルなど、『シーボルト治療日記』『治療方』にも散見する医薬を使用しつつ、四物湯などの漢方薬を投与して治療にあたった。その後、松代藩家老小山田氏の腫(しゅ)を手術し、日ならずして治癒したため松代藩医に召しだされた。こうして幕末から明治にかけて良碩は、松代藩医として活動するようになった。
宮原良碩のようなオランダ流医学を学んだ医師を蘭方医という。蘭方諸家の門人帳から北信地方の蘭方医を拾いあげてみると、現在のところ、二二人をあげることができる(表12)。これ以外にも前述の青山仲庵や、杉田玄端(げんたん)門人という須坂藩主堀直虎のほか、市町村史誌に蘭学修学をしたと記載のある医師らがいる。化政期(一八〇四~二九)ごろから遠隔地へ入門する蘭医修業者が北信地方にあらわれたことがわかる。
医師の専門化もすすみ、善光寺の医師横山玄庵(げんあん)は、文化五年(一八〇八)に松代藩医に眼科医として召しだされた。さらに、眼科修業のため、天保十二年(一八四一)ごろ、シーボルト門人の蘭方眼科医で幕府医師でもある土生玄碩(はぶげんせき)に入門した。その後、帰郷した横山玄庵のもとへ、水内郡竹生(たけぶ)村(中条村)の宮下玄英が入門し、修業後郷里で開業しているように、化政期に地方へ急速にひろまった蘭方医学は、幕末期になると帰郷した門人らによりすそ野がさらにひろがっていた。天然痘(てんねんとう)予防の種痘も万延元年(一八六〇)には松代藩士舘(たち)三郎により鬼無里村など領内に実施されていた(『県史』⑦一八九四)。