佐久間象山は、アヘン戦争(一八四〇~四二)での清の敗北をみて、孫子の兵法にいう「敵を知り己(おのれ)を知る」必要を感じて、蘭学学習を志した。天保十三年(一八四二)、松代藩主真田幸貫(ゆきつら)が海防掛老中となり、象山を顧問として海外事情を研究させた。同年九月から、象山は伊豆韮山(いずにらやま)(静岡県韮山町)の代官で高島流砲術家の江川坦庵(たんあん)に入門し、西洋砲術や兵学を学んだ。渡辺崋山(かざん)や坪井信道ら蘭学者とも交流し、同年十一月には、海防や海軍の創設などの重要性を主張した「海防八策」を真田幸貫に提出している(一四章五節参照)。
象山は、弘化元年(天保十五年、一八四四)六月から翌年二月まで、長崎の吉雄権之助門人で富山出身の蘭方医黒川良安(まさやす)に漢学を教授するかわりに蘭学を学び、化学書を読んだ。蘭学の原書研究は急速にすすんだらしい。同年七月ごろ、フランスのショメール(Chomel. Noel)著『日用百科辞典』の蘭訳書によってガラスを製造したといわれる。この象山製造といわれるガラス瓶が、大鋒寺(だいほうじ)(松代町柴)に蔵されている。さらに、象山は、兵書や砲学書に関心をもち、西洋兵術を研究した。同三年には、英人ヘンリー原著の蘭訳『析術開端(せきじゅつかいたん)』を得て、分析の学をおこなった。
嘉永四年(一八五一)に砲術書『砲学図編』を著し、松代領埴科郡生萱(いきがや)村(千曲市)で大砲試射を実施した。砲術の知識は『海上砲術全書』(天保十四年成稿)や『ペウセルの砲術書』などを参考にしたようである。嘉永五年、幕府がスチールチースの砲術書を購入したことを聞き、これを読み、その方法で新たに大斤(だいきん)地砲十二拇(ぼう)人砲を鋳造させ、翌六年春に、大森海岸(東京都大田区)で試射した。このころゾンメルの宇宙書を得て、感激して詩一〇首を作った。嘉永年間(一八四八~五四)に電信を試みたり、電池も試作したという。
犀北館長野ホテルの近山与士郎家より長野市へ寄贈された象山旧蔵洋書二二点には、砲術書のほか、化学・本草(ほんぞう)学・博物学・医学の洋書もあり、それらに象山は目を通し、不明な箇所には赤通しという付箋(ふせん)をつけて考察していたことがわかる。とくに、「Natuurkundige beschouwing van de man ed de vrouw, in den huwelyken staat. Eerste deel. Tweede druk. Amst., Leyden, 1785(結婚生活における男女の生理学的考察)」には、付箋がたくさんつけられており、象山が真剣に読み解こうとしたことが推察される。武士の家を存続させるためには、象山にとって妻順子とのあいだに子がないことが一大事であった。そこで、自分の子をもうけるためにこうした洋書を熱心に読み解いていたことがわかる。