幕末期に善光寺西町(西町)で開業していた金子成三(せいさん)(三平とも)という蘭方医がいた。善光寺医師や町医師として活動した。『調合日記』は、安政五年(一八五八)から翌六年にかけての佐久郡の患者への診療投薬記録である。コロンボ(東アフリカ原産のツヅラフジ科のつる性多年草。根を乾燥して輪切りにしたものをコロンボ根といい健胃剤)、甘硝石精(かんしょうせきせい)(硝酸カリウムで、鎮静・利尿剤)、金硫黄(きんいおう)(アンチモンと硫黄との化合物で、燈(だいだい)色の粉末。去痰薬)、喇蛄(らっこ)(オクリカンキリ、アメリカザリガニの体中から採取する結石様のもので、蘭方で利尿剤として使用)などの蘭方医薬のみを使用して治療にあたっている。
ほかにも『配剤人名録I』には金子成三の診療をうけた善光寺領・幕府領・松代領など北信濃の患者(武士・町人・百姓)の人名とその配剤一二五例、『配剤人名録Ⅱ』には、一二六から一九五まで六九例が記録されている。
『投剤貼数(てんすう)記』は、慶応二年(一八六六)七月から同年十一月十五日までの延べ九八〇人の投剤記録であり、『人名記』は慶応三年(一八六七)正月から七月までの四三一人の診療記録で、幕末における同家の盛況ぶりがうかがえる。「丁卯(ひのとう)元旦 快晴 1 堂庭吉丸屋善助、亜广接葵過巴 二 ラウダ一匁、オシアンテル十匁 一ビン、2 後町紀州屋英三郎倅(せがれ)、灌腸剤(かんちょうざい) 巴瓦覇過 オシアンテル入りビン二本 (中略)(七月)十三日 四一三番 桜小路麻屋貞助児、煎一、アラヒア二二」などと記録されており、元旦にも二人診察し、正月は再診をふくめて一七一人、一日平均六人ほどを診察している。
『調合日記』に出てくる医薬のほとんどが輸入薬であった。これらの輸入薬が善光寺医師金子成三のもとでも調合されるまでになっていたのである。セメンシーナなどは最初の輸入から一〇年余のあいだに善光寺町まで届き、製薬されるようになっていた。背景に洋薬への需要の高まりと製薬技術の高まり、医薬の広範な流通網がうかがえる。また、西洋医学にかかわる顕微鏡などの医療器具も蘭方医によってもたらされた。更級郡今井村(川中島町)の医師丸山丹治は、万延元年(一八六〇)に顕微鏡を購入し(写真43)、検査などに使用している。
善光寺平では幕末になると、蘭方医による医療が活発に展開し、蘭薬も製造され普及し、庶民は蘭薬による医療をうけることができたのである。