近世中期まで庶民のあいだでは、俳諧(はいかい)から派出した「雑俳(ざっぱい)」といわれる前句付(まえくづけ)や折句(おりく)などがおこなわれていた。信州に現存する一八世紀の古い俳額、元禄十六年(一七〇三)奉納の若一王子(にゃくいちおうじ)神社(大町市)の俳額などによって雑俳の盛行をうかがうことができる。
北信では高井郡日滝(須坂市本郷)の秋葉山蓮生寺(れんしょうじ)に、安永四年(一七七五)三月奉納の雑俳奉額がある。雑俳の種類は、前句付・廻文(かいぶん)・折句・沓付(くつづけ)・冠付(かむりづけ)などの技巧をこらしたものである。「惣連(そうれん)五百余吟」とあるが作者の個人名はなく、大島花月(おおじまかげつ)組(小布施町)・小布施凸凹(でこぼこ)組(小布施町)・高井野堀内組(高山村)など高井郡の連衆(れんじゅ)の作が主である。なかに「豆島飛竜組」があって長野市域の大豆島(まめじま)かと推測される。雑俳は高井郡方面だけでなく、ひろく信濃の庶民の文芸的遊びとしておこなわれていたのである。とくに「三笠付(みかさづけ)」と呼ばれた雑俳は賭博性(とばくせい)が強く、享保年間(一七一六~一七三六)のころ禁止されたが、その後も村々でひろくおこなわれており、領主法で禁止され、村定めなどでしばしば自粛(じしゅく)を申し合わせるほどであった。
信濃では「月と仏」といわれるように、北信濃の歌枕である姨捨山(おばすてやま)と善光寺へは古くから文人墨客(ぶんじんぼっかく)が訪れた。とくに松尾芭蕉(ばしょう)が貞享(じょうきょう)五年(元禄元年、一六八八)に『更科(さらしな)紀行』の旅をし「悌(おもかげ)や姨ひとり泣く月の友」「月影や四門四宗も只(ただ)一つ」などの句を残したことにより、芭蕉を慕う俳人、たとえば蕉門(しょうもん)十哲の各務支考(かがみしこう)などが、姨捨山や善光寺に遊び、これが地元の俳人たちのあいだに「蕉風俳諧」を浸透(しんとう)させることにつながった。
善光寺町の初期の俳人では、山崎招山(しょうざん)(善光寺大勧進代官)・藤井逸洞(いつどう)・岡田未格(みかく)・戸谷猿山(えんざん)などがおり、蕉門の支考や上島鬼貫(うえしまおにつら)などとも交流をもっていた。
蕉風俳諧の信州への浸透を示すものとして、三〇〇基をこえる芭蕉句碑がある。芭蕉没後五〇年の寛保(かんぽう)三年(一七四三)、水内郡妻科村石堂組(北石堂町)刈萱山(かるかやさん)西光寺に建立された「雪散るや穂屋の薄(すすき)の刈残し 芭蕉」を最初として、北信濃だけでも七八基ある。一八世紀後半期には芭蕉の一〇〇回忌にあたる寛政五年(一七九三)を中心に四基、一九世紀前半の文化・文政・天保期(一八〇四~四三)の建碑が三三基でもっとも多い。このほか建立年不詳の二一基も大部分は江戸時代か明治初期のものであろう(高木寛『北信濃文学碑散歩』)。
句集発刊の状況は俳諧同好者の組織化、系列化を示唆する。信州で最古に属する俳書は、宝暦三年(一七五三)三月に京都で発刊された『姨捨とはず草』という句集である。これは、善光寺のひざ元玄証坊の僧孝顔、号元水が諸家の善光寺・姨捨山で読んだ句をまとめて刊行したものである。翌宝暦四年には、松代藩の家老大熊靱負(ゆきえ)(柳州)が『俳諧初老集』を、同藩士吉田源左衛門(李井(りせい))も『紅葉合(もみじあわせ)』を刊行している。これら俳書の発行部数は決して多くはなかったであろうが、それらを閲読する一定数の同好者のいたことを示している。
信州から江戸へ出、蕉風復興を唱えて名をなし、信州へも大きな影響をあたえた宗匠として大島蓼太(りょうた)と加舎白雄(かやしらお)がいる。伊那出身の俳人大島蓼太(一七一八~一七八七)は多数の貴顕をふくむ三〇〇〇人といわれる門人を抱えていた。そのなかには、六代松代藩主真田幸弘(さなだゆきひろ)(一七四〇~一八一五)、俳号菊貫(きくつら)や、善光寺代官今井柳荘(りゅうそう)(一七五一~一八一一)らもいた。蓼太の北信での足跡は、天明六年(一七八六)六月に高井郡日滝村(須坂市)蓮生寺に奉納された俳額にみられる。この額には善光寺町の俳人路人(ろじん)・猿左(えんさ)の句もみられ、蓼太が判者(はんじゃ)として額面をしめくくっている。この額の前書中の「祖翁(芭蕉)の徳にしたがひ(中略)不易流行(ふえきりゅうこう)の境(きょう)を究むる」などの文言に蕉風を追求する姿勢をみることができる。
また、上田藩士の子であった加舎白雄(一七三八~九一)は、江戸で蕉風復興にはげみ、その手はじめに信州に足を運び、以後毎年訪れて東北信の俳人を結集させ、明和六年(一七六九)姨捨山長楽寺に芭蕉の面影塚(おもかげづか)を建立、翌年その記念俳誌『おもかげ集』を出して当地方に蕉風を定着させた。明和八年には長谷(はせ)観音(篠ノ井塩崎)に稲荷山連中によって北信としては最古に属する俳額が奉納されたが、その筆者は昨烏(さくう)(のちの白雄)である。下戸倉(千曲市)の宮本虎杖(こじょう)(一七四〇~一八二三)、松代の倉田葛三(かっさん)(一七六二~一八一八)などは白雄の高弟である。このようにして白雄も各地に三〇〇〇人といわれる弟子を育てた。
善光寺町周辺に蕉風俳諧を浸透させたのは、善光寺大門町で旅籠(はたご)駒屋を営んでいた戸谷吉九郎、俳号猿左(一七二四~一八〇一)である。猿左は北信ではじめて自分のもとに同好者を組織化し、俳諧の結社をつくり指導した人である。かれの門人は北は信越国境方面から南は佐久市におよぶ東北信一帯にわたっており、今の長野市域の二四六人、須坂市域の四七人をはじめとして、中野市・信濃町・豊野町・三水(さみず)村・牟礼(むれ)村などにはそれぞれ七人以上の門人が数えられるという(矢羽勝幸著『信濃の一茶』)。かれは寛政六年から、確認されるだけでも毎年のように八冊の俳書を発行し、同志一門の作品をひろく世に問うていた。その俳書は一門新年の挨拶句集である『春興帖(しゅんきょうじょう)』といわれる類がおもなものである。そのひとつの『老の春』は善光寺地元の出版物である。なかみをみると、「西之門丁連」「後丁連」「長沼連」などの名がみられる。
猿左のほかに一八世紀末に俳書を出していた善光寺町の俳人は、岩下文兆(ぶんちょう)(『有明山』)、今井柳荘(『俳諧かたつぶり集』)、岩下希言(きげん)(『句きゝ花見』)、岩下杜厚(とこう)(久米路橋紀行文集『埋木(うもれぎ)』)、中沢凡化(ほんげ)(『鬼やらひ』)などの有力町人である。これらの出版物の版元は京都・江戸などのほか善光寺大門町百菜堂(ひゃくさいどう)という名もみられ、北信濃にも庶民の文字文化への欲求にこたえられる印刷出版態勢がととのいはじめていたことがわかる。
印刷出版物のほか、社寺絵馬の一種として奉納された俳額も、俳諧のひろがりを今に伝える資料である。善光寺町周辺では、一八世紀に奉納された俳額は宝暦五年の瑠璃光寺(るりこうじ)(芹田千田)「奉納俳諧半折(はおり)」以外はまれで、蚊里田(かりた)神社(若槻東条(わかつきひがしじょう))に寛政七年奉納の俳額があることは確認されるが、その内容は風化がはげしくて不明である(『蚊里田八幡宮の歴史』)。善光寺町より南の長谷寺(はせでら)(篠ノ井塩崎)には、明和八年(一七七一)・天明六年(一七八六)・文化七年(一八一〇)・同十一年などの白雄・虎杖関係の俳額がみられ、この地域に白雄→虎杖→葛三の俳系がひろまっていたことを示している。