文化・文政期の善光寺俳壇

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享和元年(一八〇一)、善光寺町の猿左(えんさ)が亡くなると、それまで主として更級・埴科地方にひろまっていた宮本虎杖(こじょう)の勢力が善光寺周辺へもおよび、水内郡北長池(朝陽)観音堂の脇に虎杖と宮沢武曰(ぶえつ)による句碑が建立されている。虎杖の弟子のひとり、宮沢武曰(一七六九~一八三四?)は、更級郡二ッ柳村(篠ノ井)の春日家次男として生まれ、埴科郡下戸倉村(千曲市)の宮本虎杖や行脚(あんぎゃ)俳人常世田長翠(とこよだちょうすい)(下総(しもうさ)の人、白雄弟子、戸倉に数年仮寓(かぐう))の門下として業俳(ぎょうはい)(専業的俳人)をめざした。一時下戸倉村の宮本孚声(ふせい)の養子となったが、文化十年(一八一三)以降に善光寺町鐘鋳川端(かないかわばた)のまんじゅう屋宮沢家へ入った。文化七年、師匠の長翠を訪ねて出羽(でわ)酒田(山形県酒田市)へおもむき、長翠から「冬の日庵」を許され、善光寺横町(後町ともいう)に庵(いおり)を結び、記念集『物の名』を出した。文化十年には北信俳人から多数の句を集めて撰集『こまつびき』を出している。文政六年(一八二三)に庵を門人に譲り、善光寺毘沙門堂(びしゃもんどう)(城山の旧県社境内)に「竜夢館」を構え、天保五年(一八三四)ごろ没したという(矢羽勝幸『信濃の一茶』)。天保十一年に武曰の句碑「かゆたくは上手もいらぬ寒さかな」が、弟子たちにより城山旧県社境内に建てられた。


写真46 宮沢武曰句碑
(建御名方富命彦神別神社(城山旧県社)境内)

 また、松代出身の倉田葛三(かっさん)は、宮本虎杖に俳諧を学び、白雄の内弟子となり、長翠につかえ判者(はんじゃ)となった。長翠の跡をうけて江戸の春秋庵をつぎ、やがて相模大磯(さがみおおいそ)(神奈川県大磯町)の鴫立庵(しぎたつあん)主となっていた。文化九年、虎杖はすでに七〇歳をこえ、将来を不安に思ったのであろう、わざわざ大磯からかつての弟子葛三を戸倉によびよせ、虎杖庵を守らせることにした。このとき葛三が北信の俳人たちの句を編集して、文化十二年に出したのが『豆から日記』である。松代城跡に葛三の句碑「月夜よし行くゆくあてはなかりけり」が建てられている。

 このような北信濃の情勢のなか、江戸で名をなしていた小林一茶(一七六三~一八二七)は、文化初年から故郷の水内郡柏原村(信濃町)へ立ちもどる機会が多くなり、やがて生まれ故郷に定住することになった。文化十一年一茶は、江戸俳壇引退記念の『三韓人』を出版して信州に腰を据えることになった。一茶は柏原で亡くなる文政十年までの二十数年間にわたって、おもに猿左の俳圏であった水内・高井地方に一茶社中を形成した。

 善光寺町では大勧進寺侍の滝沢柯尺(かせき)、大門町の薬種商岩下希言(きげん)などのあいだに、まず一茶との関係ができた。その後、文化五年から、一茶は善光寺新町の薬種商上原文路(ぶんろ)夫妻の家を善光寺町での定宿(じょうやど)とし、すぐかたわらの穀商小林反古(はんこ)とも交際していた。

 善光寺町近郊の檀田(まゆみだ)(若槻)に松木可厚(かこう)(一七七九~一八五三)という俳人がいた。本名は藤兵衛といい、江戸の鈴木道彦に師事していたが、文化初年から一茶と交わった。文化十一年と文政八年の二度、可厚は地元の若月神社へ俳額を奉納している。前者は一茶・八朗(はちろう)・武曰・何丸(なにまる)・士芳(しほう)・叢(くさむら)・五什(ごじゅう)など善光寺町周辺の代表的俳人と信州俳壇にゆかりの深い江戸の成美(せいび)・道彦や完来など、「遠つ国ちかき里の風調」計四五句を秋祭りに奉納したものである。可厚の句は「七ッ子の手をおくひざや梅の花」である。後者は五什の句を先頭に、武曰・春甫(しゅんぽ)・文路・草奇(そうき)・梅温尼(ばいおんに)などすべて市域の俳人の三八句を菊の絵とともに奉納している。可厚は「草やくも御祓(おはらい)ごゝろよ葎(むぐら)の戸」と詠んでいる。両額は文化・文政期(一八〇四~三〇)の善光寺町を取り巻く俳壇を知る好資料である。可厚はまた文政四年に、鈴木道彦追善の俳書『信濃ぶり』も刊行している。

 水内郡長沼付近は早くから俳諧の盛んな土地で、猿左の勢力がおよんでいた。しかし、猿左没後は一茶がその跡をつぐ形となり、長沼が北信一茶社中(しゃちゅう)の中心的存在となった。一茶の門人は、松宇(しょうう)・士英(しえい)・月好(げっこう)・掬斗(きくと)・呂芳(ろほう)・完芳(かんぽう)・素鏡(そきょう)・春甫・雲士(うんし)・魚淵(なぶち)・二休(じきゅう)など三〇人ほどおり、隣の石村(豊野町石)の峯村白斎(はくさい)も、ときには長沼の社中に加わっていた。

 魚淵(一七五五~一八三四)は長沼の吉村家の生まれであるが、高井郡村山村(須坂市)の佐藤家へ入り、やがてまた長沼へ戻った人である。医者でもあったが蕉風俳諧の普及に力をいれていた。寛政九年(一七九七)奉納の墨坂八幡社(須坂市)の俳額には、「草不庵魚浮池(なぶち)」の名で猿左・呂芳などの七七句が奉納されている。「草不庵魚浮池」は村山村時代の魚淵である。魚淵は高井郡相之島村(須坂市)源信寺に芭蕉句碑も建立している。長沼へ戻ってからは、文化九年に長沼守田神社に芭蕉句碑を建て、桃青霊神(芭蕉)をまつり、『木槿集(きむくげしゅう)』『あとまつり』を出版した。魚淵の句碑「今も猶(なお)としどし花の臺(うてな)哉」は、文化十二年に牛島・長沼の門人によって建てられている。また、「辰とし」(文政三年カ)の春興刷りに一茶・わび介・魚淵の三人の名が並んでおり、一茶との直接的関係を示している(長沼 佐藤益雄蔵)。松代以南の更級・埴科両郡にも一茶の足跡を俳額その他で見ることもできるが、この地には虎杖の俳系が存続していた。


写真47 長沼守田神社にある魚淵建立の桃青霊神碑 文化9年(1812)10月12日造立

 文化期の吉田村(吉田)に何丸(なにまる)(一七六一~一八三七)がいた。姓は小沢氏、のちに先祖の姓に改姓して茂呂(もろ)としたという。芭蕉没後一〇〇年にあたる寛政五年ごろ、三〇歳すぎから俳諧にこころざし、はじめ「漁村」と号して研鑽(けんさん)を積んだ。句作のいっぽうで芭蕉の『俳諧七部集』の注解に没頭、その完成直前の文政元年(享和四年)、「卯(う)づきの七日草菴(そうあん)をとりかたつけて 旅人とよバれむ宵を不如帰(ほととぎす) 何丸」(『にげみづ』)と詠んで江戸へ居を移し、翌文政二年、『七部集大鏡(おおかがみ)』を発刊した。

 江戸では浅草の札差(ふださし)守村抱儀(ほうぎ)の支援をうけて一家をなし、文政七年に京都二条左大臣家から「俳諧大宗匠(だいそうじょう)」を許された。京都からの帰途北陸回りで信州へ立ち寄り、生まれ故郷の吉田観音堂前へ芭蕉句碑を建立、また善光寺本堂へ記念の俳額を奉納している。この奉額は何丸一家の句が中心であるが、一茶社中の春甫・士英・魚淵・月好・寒斎(白斎)らも出句している。なお、文政五年に何丸が撰した「杜鵑異名句合(とけんいみょうくあわせ)」は、ほととぎすを詠んだ芭蕉をはじめ古今東西三〇〇人ほどの句を集めた刷り物であるが、その末尾の三句は、信濃の一茶・白斎・何丸の句で締めくくっている。

  一声ハ夢でありしか郭公(ほととぎす)   一茶

  鳴たのハ夢かうつゝか時鳥(ほととぎす)  白斎

  鶯(うぐいす)はよい子もちけり親不似鳥  何丸


写真48 文政5年(1822)何丸撰「杜鵑異名句合」 末尾の一茶・白斎・何丸の句
  (豊野町 金井清敏蔵)

 何丸は他郷にあってもつねに信濃を意識していたのであろう。天保三年に再度上洛して二条家から「俳諧奉行御代官」を仰せつかった。善光寺毘沙門(びしゃもん)堂に芭蕉の句碑「月かげや四門四州も唯一ツ」を建立したのは何丸の息子であるが、裏に「二条殿御代官月院社男尺木堂大宗匠建焉(これをたつ)」と刻んでいる。天保八年何丸は七七歳で亡くなった。ほぼ同時代に生きた一茶と何丸はまったく対照的な晩年を送った。前者は名利権威に無縁のまま江戸を切りあげて故郷へ帰り、後者は故郷を捨てて江戸へ移りながらも、俳諧奉行御代官として故郷に錦を飾った。