俳諧の大衆化

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文政の末ころから俳諧などの文芸趣味が村々のすみずみまで浸透していった。そのようすを埴科郡森村(千曲市)の百姓中条唯七郎が『見聞集録』に書きとめている。

 俳諧については「文政十一年(一八二八)八月二十八日まで、俳諧とは何の事ぞ、という程のことなり」と唯七郎は述べている。一茶が亡くなった年の翌年にあたるこの日、矢代(千曲市)の和尚がはじめて宮本虎杖(こじょう)を森村の寺へ連れてきて、村のおもだった者へ俳諧の手ほどきをした。その後、村人は善光寺町の宮沢武曰(ぶえつ)や埴科郡下戸倉村(千曲市)の倉田葛三(かっさん)などの指導をうけるようになった。こうして俳諧に限らず絵画・素読(そどく)・筆道・生花などの諸芸までがおこなわれるようになったという。この背景には、読み書きの普及によって村々に「今ハ無筆の人なし」というほどの識字力水準の向上があった。

 俳諧の盛行のさまは、今も各地の社寺に残されている俳額などでうかがうことができる。文化年間(一八〇四~一八)以前の残存額は少数で、先にのべた更級郡塩崎村(篠ノ井)長谷観音堂の五面の額以外は、天明七年(一七八七)の埴科郡虫歌観音(松代町豊栄(とよさか))、寛政四年(一七九二)の更級郡二ッ柳神社(篠ノ井)、同七年の同郡更級斗女(とめ)神社(川中島町)の奉額ぐらいである。善光寺近在の水内郡では、寛政七年の東条村(若槻)蚊里田(かりた)八幡社のほかは、文化十一年(一八一四)の檀田(まゆみだ)村(若槻)の若月神社に額が残っているだけであるが、文政(一八一八~三〇)以後は善光寺本堂をはじめとして天保・弘化・嘉永(一八三〇~五四)としだいに額数は多くなっている。また、一つの額に掲載されている句数も年を追うごとに多くなる傾向である。これらは村落ごとに発句(ほっく)をたしなむものが多くなり、俳額への応募体制が師匠や俳諧連中の人脈を通じて系統的、広範囲におよぶようになっていたからである。

 発句の作者も男性だけでなく「献額のみぎり無筆なる女までその列に入」るほどとなり(『見聞集録』)、村落の「○○女」という無名妻女はちろん、男性顔負けの作をものした女流俳人、たとえば鳳秋(ほうしゅう)(宮本虎杖妻)・雲裳(うんしょう)(小林迎祥(げいしょう)妻)・雨紅(うこう)(坂木村(坂城町)大藤屋妻)・応々(おうおう)(鈴木道彦妻)なども俳書や俳額に名を連ねるようになっていた。

 社寺への奉額にかかわった俳人は、水内郡石村(豊野町)の白斎(はくさい)をはじめ、武曰(ぶえつ)・士芳(しほう)・月国(げっこく)・桂(かつら)・迎祥(げいしょう)・吾仏(ごぶつ)などである。なかでも白斎は、長寿だったからでもあるが、市域の水内郡各地の社寺、善光寺・芋井神社(上高田村)・万刀美(まとみ)神社(押鐘村)・桐原牧神社(桐原村)・古野神社(布野村)などにその名がみられる。

 天保以降の俳額は、約三〇年前の文化年間のそれとは様がわりしている。寛政・文化期(一七八九~一八一八)の俳額は名ある俳人たちの句を五〇句前後から一〇〇句ぐらいをまとめて掲げたものがほとんどで、作者もどこのだれと本名で特定できるほどである。たとえば、若月神社の場合、句数四五句、俳人は一茶をはじめ素弓(そきゅう)・素蘖(そばく)・葛三・八朗・武曰・五什(ごじゅう)・艸司(そうじ)・士芳・雨洞(うどう)・思月(しげつ)・希杖(きじょう)・春甫(しゅんぽ)・呂芳(ろほう)・何丸(なにまる)など近隣の名のある人びとと、江戸など遠国(おんごく)の成美・乙二・長斎・完来・道彦・岳輅(がくろ)など著名人だけである。現在名前の特定できない俳人は一〇人以下である。この奉額は選ばれた俳人たちの句を主催者が請(こ)うて寄せてもらい、神社へ奉納したものである。

 天保以降になると、公募された発句から選ばれた額面の句数は一〇〇句から二〇〇句におよび、句を寄せた俳人の遠近の村々は数十ヵ村を数え、女流俳人の名も多くなる。若月神社から約三〇年後の天保十三年(一八四二)桐原牧神社の額は、近郷近在の数十ヵ村の連絡網をとおして公募チラシを配付し、出句料をとって組織的に発句を募集したものである。地域的広がりは、地元の桐原を中心に西は水内郡竹生(たけぶ)村(小川村)、東は高井郡若宮村(中野市)、南は埴科郡松代町、同郡矢代村(千曲市)などまで六三ヵ村におよんでいる。選者は草莽庵箕山(そうもうあんきざん)(東和田村の清水和吉)と寒岳園白斎で、それぞれに高点の部・五点の部・三点の部・秀逸などに分類している。遠近の著名な俳人の句は、「諸家文通吟」として鳳朗(ほうろう)・春耕(しゅんこう)・叢(くさむら)・丿左(へっさ)・周睦(しゅうぼく)・月外(げつがい)など他地区の師匠級や選者の弟子の句が一五句ほどがあり、それに補助の部・催部・選者吟で句数総計一九三句となっている。そのなかで女流俳人と思われる句はつぎのとおりである。

  久かたの雲も雪解(ゆきげ)のゆるみかな    牛島  岐せい

  しづかさの槙(まき)の葉をもる雪雫(しずく)  桐原  みゑ女

  雰(きり)はれや仕廻ふてもどる朝仕事     東和田 やかな

  紅葉にもつけたき軒の灯籠(とうろう)かな       芝布女

 右のうち芝布女は「諸家文通吟」の仲間となっているので、女流俳人として評価されていた女性であろう。なお、善光寺周辺だけでなく、山中(さんちゅう)とよばれた現小川村や信州新町方面にも女性俳人がみられ、天保十二年竹生村の八幡宮への奉額には「中条 玄雨少女」「竹生 まつ女」「竹生 きた女」「新町 渡佐女」の発句がみられる。各地に残る多くの俳額は、女性をふくむ多数の無名俳人らの投句によって成り立っていたのである。

 このような俳諧盛況の底辺を支えた各地の俳諧連は定期的に句会を開き、いわゆる「月次会(つきなみかい)」が盛んであった。大衆のなかにひろがっていた「月次会」の発句を「月並俳句」とよんだのは明治の正岡子規(しき)である。かれは「天保以後の句は概(おおむ)ね卑俗陳腐(ひぞくちんぷ)にして見るに耐えず、称して月並調という」といった。たしかに、大衆のなかへ浸透した俳諧趣味「月並調」の盛行に、高度な芸術性を求めることはできないであろう。しかし、庶民の短詩文芸への親近によって世間一般に識字能力や文芸的素養の高まりがみられたことは、やがて来たるべき教育制度整備の礎石の一環をなしたものとして評価されるべきであろう。