和歌は万葉集・古今集いらいの伝統文芸で、中世から近世初期には、堂上(どうじょう)の公卿(くぎょう)や、大名など上層武士階級によって継承されてきた。そのため近世中期以降も庶民とはかなりの距離があり、神官や町村役人層などにおこなわれたが、俳諧(はいかい)のような一般化ないし大衆化はみられなかった。
長野市域の和歌の伝統は松代藩主やその藩士らによって維持された面が大きい。信州に現存する古い資料としては、上田城主真田信之(のぶゆき)一家が慶長末年(一六一四)ごろに巻いたといわれる「夢想連歌(れんが)」、また真田昌幸(まさゆき)の重臣木村綱茂(~一六一八)一門が詠んだ「夢想連歌」がある(本章二節参照)。これらは、ほんらいの歌会のあとで、余興的に和歌の上の句と下の句を交互に付け合いながら、一巻にまとめたものである。連歌は和歌の伝統を重んじた「有心(うしん)連歌」と、滑稽に重きを置いた「俳諧連歌」とに分化する。
松代藩の二代藩主真田信政(のぶまさ)はとくに文芸に熱心であり、また六代幸弘(ゆきひろ)・七代幸専(ゆきたか)・八代幸貫(ゆきつら)なども和歌の道に造詣が深かったという(村沢武夫『信濃歌道史』)。これら藩主のもとにあった藩士にも歌人は少なくなかった。四代信弘(のぶひろ)時代の藩士興津正辰(おきつまさとき)(一六八三~一七三八)は、須坂藩の富田春嶺(しゅんれい)とともに近世北信和歌の先駆者といわれる。正辰は興津正純の長男として江戸に生まれ、幼名荘三郎、のち藤左衛門正辰と称し、心学者としては匡直舎(きょうちょくしゃ)と号した。神道家吉川惟足(きっかわこれたる)に学び、詩文絵画にも通じた。兵学では興伝流(長沼新流)を創始した。和歌では荷田春満(かだのあずままろ)につき、賀茂真淵(かものまぶち)とも交わっていた。かれの養子興津湖山(こざん)(一七一八~一八〇二)も国学・兵学者として実績を残している。
松代藩家老の家筋である矢沢家歴代の和歌・俳諧資料が真田宝物館の『矢沢家文書』に残されており、とくに一一代矢沢頼容(よりかた)(将監(しょうげん)・外記(げき)、一七六六~一八二〇)の和歌・連歌の資料が多い。そのなかに藩士のあいだで定期的に歌会が開催されていたことを示す資料もあり、一年分の「月並(つきなみ)兼題」として毎月の歌題が三ないし四題ずつ記されており、その十月の分には「時雨知時・落葉如雨・閑庭霜」の三題が記されている。また、寛政十一年(一七九九)十月二十六日に皓月山(こうげつざん)大英寺でおこなわれた歌会の詠草もふくまれており、そのときの兼題は「山落葉」で、参加者は松代藩家臣の直重・安輝・空回・頼容・直愛などであったことも知られる。
天明・寛政(一七八一~一八〇一)のころ、歌学者の大村光枝(みつえ)(一七五三~一八一六)が真田幸弘に召され、京都から松代へ来て藩士に歌道・国学を講じ、松代を中心にした歌道隆盛に貢献した。かれは埴科郡東条村(ひがしじょうむら)(松代町)天王山麓(さんろく)に柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)の霊碑を建立し「みすずかる片山かげにうつしみへみかげたくもあふぎつるかも」の歌を詠んで刻んでいる。この大村光枝が須坂藩の富田春嶺を「霞たつ春の高嶺(たかね)に比ぶれば光りだに無しこれのしづ枝は」と詠じて春嶺の偉大さをたたえたという。
京都などで和歌を学び、帰郷して信濃各地に和歌を指導したものもいる。善光寺町出身で尾張藩の儒家塚田大峯(つかだたいほう)の末弟大愚慈延(たいぐじえん)(一七四八~一八〇五)は比叡山の僧であるが、京都で釈澄月(しゃくちょうけつ)・伴高蹊(ばんこうけい)・小沢蘆庵(ろあん)とともに平安和歌四天王とよばれていた。伊那郡飯島の桃澤夢宅(むたく)は京都で慈延たち公家方の和歌を学び、帰郷して多数の門人を養成した。
伊勢御師(おし)荒木田久老(ひさおゆ)(一七四六~一八〇四)は、信州の檀家廻りの機会に和歌や国学の指導をし、大きな影響をあたえている。水内郡権堂(ごんどう)村(鶴賀権堂町)の名主永井善左衛門幸直も指導をうけた一人で、久老の天明六年(一七八六)信濃国檀家めぐりの『旅日記』に幸直(善左衛門)の名はしばしば見られる。久老の宿へ幸直が伺って歌を詠みあい、ときには、万葉集の読み合わせをするなど、二人の親交ぶりをうかがわせる記事が多い。先にふれた須坂藩の春嶺も、永井幸直などとともに久老から『伊勢物語』・『万葉集』などの講義をうけていた。
久老に信州人が和歌を学んだ事例は、前記した森村(千曲市)中条唯七郎の『見聞集録』にも、「矢代(千曲市)にて武田宗吾といふ者伊勢御師久老の門下と成ッて古体の和歌よめり」と記されている。矢代村の人武田宗吾(一七六八~一八四四)は、識正(としただ)、五岳楼また廓翁(かくおう)といい、宗吾は通称である。かれは久老が享和元年(一八〇一)、同二年に信州に来たときに久老について和歌を学んだ。その後木島菅磨(すがまろ)という歌人が松代藩に招かれて和歌・国学を講じていることを知り、宗吾は菅麿について研鑽(けんさん)を積んだ。菅麿が松代を去ると宗吾が後任に推されて松代藩の和歌・国学の師範となり、門人三〇〇人余を数えたという。
その識正(宗吾)に森村の若者が文政七年(一八二四)に入門し、年中時々和歌の会をもよおして「追々一日日雇(ひよう)の渡世人までその門に入る、時代の盛事を唱ふる事専ら也」というありさまになった。森村に和歌が流行する以前、鼠宿(ねずみじゅく)村(坂城町)あたりでの和歌盛行の様を「および無き雲の上なるわざごとは和歌とはいはでばかといふらん」と里人は悪口していたという。和歌は庶民には無縁のものと思いこんでいた森村の、その日暮らしの渡世人にまで和歌が浸透したのである。
江戸歌壇の重鎮清水浜臣(はまおみ)(一七七六~一八二四)について国学・和歌を学んだ信州人は、高井郡仁礼村(須坂市)の羽生田修平(はにゅうだしゅうへい)(一七九四~一八二八)や善光寺町の国学者岩下桜園(おうえん)(一八〇一~六七)などである。桜園には『不繋(つながざる)船』という和文和歌集があり、善光寺についての研究書『芋井三宝記』・『善光寺史略』なども残している。浜臣の旅日記『上信日記』によると、浜臣が善光寺町へ入ったのは文政二年閏(うるう)四月十一日から十六日までで、戸隠へも足をのばし、門弟の家々に歌文を残している。善光寺町では寛慶寺方丈の「花月」の文字を見て、浜臣は「月花のいほりとのみや我は見ん水草涼し松の下蔭」と壁に張りつけたりなどしている。
文政十年刊行の『信上(しんじょう)当時諸家人名録』に信州の文芸人三五一人が記載されている。そのなかで一番多いのが俳諧の一〇九人で、全体の三一パーセントにあたる。和歌は一三人で四パーセント、俳諧歌(狂歌)は四五人で一三パーセントである。この人名録に長野市域の人で「和歌」と分類されているのは、いずれも水内郡の善光寺町の宮澤武曰(ぶえつ)(万葉和歌とあり俳人でもある)、和田村(古牧)の箕山(きざん)(清水和吉)、下越(しもごえ)村(吉田)の慈眼(元慶院)、長沼村(長沼)の成室(西厳寺(さいごんじ))の四人だけである。このほかに、善光寺西町(西町)の宮下嘉成(かせい)(庄屋銀兵衛)、西之門町(西ノ門町)の医師堀泰成(玄道)、大勧進代官久保田貞秋(将監(しょうげん))、大勧進の上田恭忠(きょうちゅう)(丹下(たんげ))、大勧進代官今井菊翁(きくおう)(磯右衛門)、大門町の書店岩下草司(そうじ)(平助)などの歌人もいた(『長野市史考』)。これらの歌人はいずれも寺僧や医師、町・村役人などである。