狂歌から俳諧歌へ

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狂歌の滑稽は、古典和歌の優雅な形式のなかに優雅でない内容を詠みこむところにある。その基本的な技法は、「本歌取り」である。もとの歌の一部を変更して異なった意味に急転させるすり替えの滑稽が狂歌のいのちである。したがって、原作の歌を読者が熟知していなければ狂歌の滑稽は理解されない。そこで多くの人が知っている小倉百人一首が狂歌の本歌となった。この滑稽和歌、狂歌は古くからおこなわれていたが、江戸時代前期には松永貞徳(まつながていとく)が上層階級のくだけた風流として俳諧と狂歌を士民一般に導入しようとし、主として大坂方面に流行していた。また狂歌は、封建時代の政道批判の手段のひとつとして、諷刺(ふうし)・嘲弄(ちょうろう)を一首にこめる一面もあった。

 江戸では、上方よりおくれて明和六年(一七六九)に、はじめて狂歌の会が発足した。中心となったのは唐衣橘洲(からころもきっしゅう)と四方赤良(よものあから)(大田蜀山人南畝(しょくさんじんなんぽ))である。赤良を中心とする天明狂歌は文芸界の主流の感があった。

 しかし、寛政の改革以後狂歌は落首体に近いと非難を浴び、鹿津部真顔(しかつべのまがお)(北川嘉兵衛)などは和歌への接近をはかり、文化年間(一八〇四~一八)には狂歌の名を廃して「俳諧歌」と称し、いたずらに上品な微温的な作風におちいったといわれる。落首体をはなれ和歌への接近をはかったかれの意向は、かれが弟子にあたえた判者(はんじゃ)免状にみられる。信州には真顔派の判者が五人おり、そのひとりは善光寺町近郷神代(かじろ)村(豊野町)の歌丸である。文政十二年(一八二九)、歌丸に真顔があたえた判者免状には「鄙俚(ひり)の落書躰(てい)はゆめゆめ合点有るべからざる者也」とし、歴代の名匠の体に習えとさとしている。この免状をもらった歌丸は、明和七年に神代宿の庄屋・本陣の家に生まれ、通称十郎兵衛、父祖の跡をついで神代村庄屋をつとめた。雅名は東僊堂(とうせんどう)歌名としていたが、のちに東仙堂歌丸とあらため、善光寺近隣の俳諧歌の師匠として活躍した。

  花守の眠る油断の透間あらば忍びで通へ夜の梅が香    歌丸(『俳諧歌觹』)

  妹(いも)が手を握り拳の正夢ははづす枕に礼を言ひたし  歌丸(  同  )

 信州では真顔の俳諧歌がひろく浸透し、真顔の狂歌を刻んだ狂歌碑は、佐久郡三基、松本町一基、小県郡二基と更級郡八幡村(千曲市)長楽寺の一基の七基が現存する(浅岡修一「信州の真顔狂歌碑」『長野』八〇・八二)。

 善光寺町に現存する狂歌碑は、城山の旧県社境内に文化五年(一八〇八)建立の江戸の判者庭訓舎綾人(ていきんしゃあやんど)(久野与兵衛)の碑「見渡せバ月の輪後光ふな後光念仏のうかむ川中の嶋」がある。また往生寺(往生地)に天保七年(一八三六)建立の地元の狂歌師曽代起(そだいき)(記とも、一七七五~一八三六)の歌を師匠の瀧廼本千丈(たきのもとちたけ)が記した歌碑「家さくら花のやどりやせまからむみな人ごとに心とむれば」と、翌天保八年六月二十九日に死去した寿庵長雄(ことぶきあんながお)の歌碑「夏ころもうすき心やきのふまで花にいとひし風をまつとは」がある。また川中島合戦の旧跡八幡原(はちまんばら)(更北小島田町)には、明治期の建立であるが、更級郡小島田村出身の月廼亀麿(つきのかめまろ)(田中亀太郎、慶応元年(一八六五)六七歳没)の歌碑「跡しのぶ川中島の朝あらしいぶきのさ霧おもかげに見ゆ」がある。(浅岡修一『長野市の狂歌碑』)。


写真50 庭訓舎綾人碑
(建御名方富命彦神別神社(城山旧県社)境内)

 曽代起らの師匠、江戸の狂歌師瀧廼本千丈は、真顔の弟子であったが、国学者であり幕臣として勘定所の書き役でもあった。文政十二年に真顔が没したあとは、この千丈が北信濃の狂歌(俳諧歌)界に大きくかかわっていた。天保四年ごろ千丈が撰し序文を書いて出版した『俳諧歌夫婦(めおと)百首』には、善光寺町の裾花亭(すそばなてい)丘人・寿庵長雄・蓮池房藻屑(もずく)・玉倉雁音(かりね)など九人、また翌年千丈が刊行した『俳諧歌世継百首』にも善光寺御国・苅萱堂(かるかやどう)曽代記(起)など一七人の善光寺町俳諧歌師の作品が収められている。

 信州を代表する狂歌師のひとりに、松代が生んだ蘭薫亭薫(らんくんていかおる)がいる。かれは寛政二年(一七九〇)、松代藩士間庭一郎左衛門の子として生まれ、通称平左衛門という。平左衛門は、たまたま信州入りした狂歌師落栗庵紀毒也(おちくりあんきのどくなり)について狂歌を学び、のちに真顔の門に入り、さらに宿屋飯盛(やどやのめしもり)(石川雅望(いしかわまさもち)、号六樹園)についてその道を深め、平安堂・支那廼舎(しなのや)・酔夢翁・金魚逸人などとも号し、狂歌を更級・埴科・小県三郡にひろめた。蘭薫亭薫はさらに江戸で活躍して大いに頭角(とうかく)をあらわし、文政二年には江戸の狂歌角力(すもう)番付の大関にすえられた。その後松代へ帰り、文政七年五月の祇園(ぎおん)祭に藩主真田幸貫(ゆきつら)の政事を批判するつぎのような狂歌(落首)を発表した。

  二百年丸で過ぎたる羽織さへほころびかかる今の御時勢

  白河の大泥水が押し込んで真田の稲をだいなしにする

 この歌で藩主の怒りをかったので、松代領を出て、幕府領埴科郡小嶋(おしま)村(千曲市)へ逃れ、やがて名古屋から京都にいたり、その地で狂歌師としての名をあげ、宮中御歌所から関西一七ヵ国の狂歌指南の免許を下付されたという(『松代町史』下)。蘭薫亭薫は明治三年(一八七〇)三月二十二日、享年八一歳で没した。墓碑は松代の龍泉寺にあり、つぎの歌が刻まれている。

  土となるあの世も友と頼なむやまにいる月根にかへる花


写真51 蘭薫亭薫の墓(右がわ)
  (松代町松代 龍泉寺)

 なお、蘭薫亭薫の弟窪田富之助は蘭陵亭美酒(らんりょうていうまき)といい、妻は蘭薫亭女として薫とともに更級・埴科の狂歌界で活躍していた。

 狂歌の奉額としては、文化十五年、埴科郡雨宮(あめのみや)村(千曲市)雨宮座日吉(あめのみやにいますひよし)神社に真顔撰の額(三四首)、文政五年、更級郡塩崎村長谷(篠ノ井)の長谷観音へ真顔撰による額(二五首)、文政七年、埴科郡東条村(松代町)清滝観音堂へ蘭薫亭薫義信が奉納した額(五一首)などがあり、北信濃の文化・文政期(一八〇四~三〇)における狂歌の実績を示している。

 『信上当時諸家人名録』の「狂歌」の部に見える善光寺町の人物は、竹葉亭千代人(酒井嘉助)、責礼斎染人(汐入奥次郎)、彫金亭杏谷(きょうこく)(後藤規平)の三人である。また、「俳諧歌」の部に見えるのは、松代の万庵(よろずあん)(伊藤量吉)、亀廼屋(かめのや)定雄(小宮山又七)、水内郡赤沼村(長沼)の黄鳥亭歌友(こうちょうていうたとも)(徳永富右衛門)、歌好(うたよし)(中澤熊吉)である。

  おさへたる枝の手もとへ散ぬるは春の別れの花の盃(さかずき)      歌友(『鮮衣集巻三』)

  山姫の手業(てわざ)によれる糸ゆうやすぐに霞のきぬになるらん     歌好(『鮮衣集巻一』)

 なおまた、松代藩の具足師高田孝七秀雄が真顔の弟子となり、松盧庵(しょうろあん)秀雄と号して師匠となり門弟に教授したという。滄亭(そうてい)鳴海という堀内姓の狂歌師も松代の人で、和漢の学にすぐれ、つねに諸国を行脚(あんぎゃ)していたという。

  夜を一夜蚤(のみ)と相撲を取りかねてひねれば転ぶ床の紙屑(かみくず)  松盧庵秀雄(『鮮衣集巻四』)

  余念なく笑ふ山々このごろはたらすよだれや雪の下水          滄亭鳴海(『五撰集』)

 このほか松代には、生没年・本名など不明な狂歌師として文舎安筆・夢の門真倉・蛍雪窓真稚名・観雪房真神・真雅美・真澄・張月舎真弓などの作品も伝わっている(浅岡修一『信濃の狂歌』)。

 このように一九世紀に入って狂歌(俳諧歌)は北信濃の民衆へも浸透してはいたが、ほんらい古典和歌の素養を要求される文芸であった狂歌は、たやすくは庶民文芸になりえず、狂歌としてのあり方を失い、やがてはほんらいの和歌のなかに吸収されてしまった感がある。