文書の世界のひろがりと教化施策

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近世において村役人であった家や村の郷蔵(ごうぐら)には、その当時の文書が残されていることがある。残存状況は初期から中期・後期へとすすむにつれてその数量が増加していく。これらの文書に百姓がどうかかわったかをみてみよう。

 寛永(かんえい)五年(一六二八)十月一日、この年の「年貢定(ねんぐさだめ)」が上田藩役人から更級郡中氷鉋(なかひがの)村(更北稲里町)庄屋あてに出されている。年貢高は、石高(こくだか)にたいして三割五分の年貢率をかけて出す本年貢と付加税の一石あたり約三升の口米(くちまい)であるが、これらの年貢を十一月二十日までに納入することを求めていた(『市誌』⑬一一六)。年貢は庄屋のもとで、村内に田畑を所持している百姓全員に石高に応じて算出して割りあてた。年貢納入の手続きは、庄屋と村役人がおこなった。近世初期から庄屋や村役人層は、計算ができ、文字が書けたのである。年貢を納入する一人前の百姓は、みずからの年貢収支の計算がわかっていたと考えられる。

 寛文(かんぶん)五年(一六六五)十一月の水内郡箱清水村(箱清水)「吉利支丹(きりしたん)宗門改め請(うけ)証文」が残されている(『市誌』⑬七四)。これはキリシタンを根絶するための証文で、庄屋一人のほか一九人が署名(しょめい)・捺印(なついん)している。この二〇人は、宗門帳を読み、その内容を理解していたと思われる。享保(きょうほう)十三年(一七二八)の幕府領更級郡今井村(川中島町)「村入用夫銭帳(にゅうようぶせんちょう)」では、名主一人・組頭四人・百姓一〇二人が署名、捺印している(『市誌』⑬一七九)。幕府は正徳(しょうとく)三年(一七一三)「村入用夫銭帳」を惣百姓に公開・加判させ、一部を提出するよう命じていた。これによって小(こ)百姓をふくめた百姓全員が村入用の収支を点検することになり、小百姓もこれを読み、内容を知ることが必要になった。

 水内郡下駒沢村(古里)では、享保十年七月に「村定(むらさだめ)」を作成し、庄屋一人、組頭一人、長(おとな)百姓五人、百姓六七人が署名・捺印している(『市誌』⑬一七八)。共同体である近世の村を維持するには、村人全員が「村定」を理解して遵守(じゅんしゅ)する必要があった。文化六年(一八〇九)九月、同郡南堀村(朝陽)の若者組の三七人が「定」をとりきめている。これを堅守するために全員がめいめい名前を自分で書き、血判をおしている(『南堀共有文書』)。若者組加入者なので男子だけであるが、このように若者たちも文字を書けるようになっていた。


写真52 文化6年(1809)南堀村若者規定(南堀共有文書)

 このように近世初期には村の上層百姓のみの文字文化であったが、やがて、中・後期になると幕府や藩の政策を知り、また村を維持していくために、村人全員が文字を理解しなければならなくなっていった。さらに、日常生活のなかで借金をするにも、奉公するにも、商い取り引きをしていくにも文字による証文が必要であった。文字を読み書きできる人びとは急速にひろまっていったのである。

 つぎに松代藩による領内村々にたいする教化施策をみたい。文政七年(一八二四)三月、松代藩主真田幸貫(ゆきつら)は『六諭衍義大意(りくゆえんぎたいい)』を領内の村々に配付した。とくに、六諭の「一(ひとつ)父母に孝(こう)をつくすべし。一年上の人、目上の人をば尊(とおと)み敬(うやま)うべし。一村里とは和(やわ)らぎ睦(むつま)じくすべし。一子孫をば教え導(みちび)くべし。一銘々家業に精出すべし。一悪事を致す事なかれ」にそむく人は次第によっては罪となるとした。そして『六諭衍義大意』を四季に一回ずつと村祭りのときなど年に四、五度は、子どもをふくめた村人に読み聞かせるよう求めた。文政九年四月、この『六諭衍義大意』に感じた水内郡桐原村(吉田)と北徳間村(若槻)の浄土真宗の信者が朝晩の食事を倹約し、それぞれ銭五二〇文と銭一貫六一九文を藩に献金している(災害史料⑬)。この『六諭衍義大意』は清(しん)の康熈帝(こうきてい)が頒布(はんぷ)した『六諭衍義』をもとに、八代将軍吉宗が室鳩巣(むろきゅうそう)に作らせた意訳書である。吉宗はこれを寺子屋師匠に手習い本として使用させた。その後、幕府はこの本を寺子屋師匠に褒賞(ほうしょう)としてあたえたりもしている。

 心学者(しんがくしゃ)は、心学の趣意をおもしろく、わかりやすく聞けるように仕組んだ道話(どうわ)を語って回村した。心学は江戸時代中期に石田梅岩(ばいがん)が京都で開いた人生哲学である。この回村を心学では巡講(じゅんこう)といい、巡講によって人の教化と心学の普及をはかった。長野市域へは心学者清水春斎(しゅんさい)が文政から天保にかけて巡講している。文政十三年閏(うるう)三月の水内郡千田村(芹田)(『市誌』⑬四四九)と、天保二年(一八三一)十月の同郡坪根(つぼね)村(七二会)(『県教育史』⑦三六九)の二ヵ村では道話聴聞帳が残っている。千田村の聴聞者は二四八人、坪根村では一三六人であった。千田村の場合は女子の聴聞者が男子より多い。そして、両村とも松代藩の配慮によって道話を聞くことができたと記している。

 藩主幸貫は、天保二年に「かくあるべし」を領内の村々に配付した。「かくあるべし」は、中之条代官荒井平兵衛が心学者中沢道二(どうに)の道話の聞書『道二先生御高札道話』を参考に作成した教訓書である。幸貫はこれを読み、領民を導くよい書物として岩下清酒(きよき)に命じ版刻させた(「かくあるべし」『大平喜間太収集文書』)。松代藩は天保元年に「かくあるべし」を版行し、御用金の上納者にも褒賞のひとつとしてこの本を下付している(災害史料⑭)。