寺子屋による教育の年代は、江戸時代から明治五年(一八七二)の学制頒布による学校教育までとし、その教育は読み書きが基本で、算術も加わる私的な学習とした。これをもとに、寺子屋師匠を最近の研究資料にもとづいて整理したのが表13である、なお、市域の寺子屋は明治六年の各郡「家塾・寺子屋調」(『県教育史』⑧)によるとすべて廃業している。寺子屋としなかった師匠は、私塾・家塾、つまり漢学・国学・洋学・算学(和算)などを専門的に教えるもので、それらを教授する人は除外した。そのほか謡(うたい)・俳諧(はいかい)・挿花(そうか)(生花)・折方(飾物などを紙で包むときにその紙を折る方式)などの師匠も除いた。ただし、謡などの師匠でも、読み・書き・算術をも教えている場合は寺子屋師匠とした。和算については、『更級郡埴科郡人名辭書』・郡誌・町村誌などで、寺子屋師匠と記載してある人のみ表に加えた。
表13によって寺子屋師匠の人数・開業年代・職業・筆塚をみてみよう。師匠の人数は全体で九三四人で、表13の村々では人数の多少はあってもそれぞれに師匠がいて教育がなされていた。これは前述したように、生活するうえで文字を理解する必要があったからである。寺子屋の開業年代をみると、市域全体では天明期(一七八一~八九)までの開設は八パーセントほどである。それ以後を約三〇年ごとに区切ってみると、約二〇、三〇、四〇パーセントと増加している。幕末に近づくにつれ、寺子屋へ通わせる要求が高まっていったことのあらわれである。開設年代の早いのは埴科郡・更級郡の現長野市域南部地帯で、この両郡とくらべて上高井郡と上水内郡では少ない。
寺子屋師匠を職業別にみると、約半数が百姓である。百姓師匠の割合は上水内郡でとくに高く、更級郡と上高井郡でも一位は百姓である。埴科郡だけは藩士が四割をこえており、二位が百姓となっている。この郡には藩士の住む松代城下町があったためであろう。他の三郡の二位は僧侶である。僧侶は江戸時代では地域の知識人であり、村人の生活に旦那寺(だんなでら)としてさまざまにかかわっていた。
親から子、子から孫、また師から弟子へと伝えつぐ相伝の師匠が目立つのは百姓で、名主など村役人の家が多い。ほかは僧侶・医者・神官・修験(しゅげん)の家である。そして相伝の師匠は筆塚(ふでづか)で顕彰(けんしょう)されている例が多い。なお、筆塚のある寺子屋師匠は上水内郡が八六パーセントにもなり、ついで上高井郡、更級郡、埴科郡の順となっている。この師匠への筆塚顕彰の割合の高さが高いだけ、師匠とその地域との結びつきが深かったと思われる。
松代藩では、天保九年(一八三八)十二月に藩主から寺子屋師匠にたいし、「その方筆道門弟多数を指南いたし、一段のことおぼしめし候」と褒詞(ほうし)がくだされたことが、「埴科郡私塾寺子屋調べ」(『県教育史』⑧三五)の松代城下馬場町の師匠小森小膳と成本丹治の項に記載されている。ときの藩主は真田幸貫であるので、すでにのべた教化策とともに師匠を称揚したのであろう。