寺子と往来物など

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寺子屋に学ぶ子どもを寺子、または筆子といった。そして、子どもが寺子屋へ入門することを登山、あるいは寺入り、退学することを下山、または寺下りといった。表14で何月に登山したかみてみよう。善光寺町の寺子屋では一月から五月ごろが多いが、その他の月にもかなりみられる。それにたいして、農山村の更級郡高野村(信更町)では全体の七割が農閑期の一月から三月に登山している。登山の年齢は表15のように七歳から九歳が多かった。入門年齢のこの傾向は、信濃国全体でもほぼ同じであった(『県教育史』①)。登山者の男女別の割合は、善光寺町の場合に女子が五割と非常に高い。農山村では寺子屋に通う女子は少なかったことがわかる(表16)。


表14 寺子屋への月別入門者数


表15 安藤義雄寺子屋の入門時の年齢


表16 寺子屋の男女別入門者数

 文化十年(一八一三)九月、岡田村(篠ノ井)の寺沢家では子どもが登山するにあたって、祝儀(しゅうぎ)に扇子(せんす)・筆・墨・手拭い・お金などを三四人から贈られている。そのなかに「~殿内」「~殿御母」とか女性名を記すものなど、女性が一四人いる。当時、子どもが社会生活を送る第一歩の登山に、女性からお祝いをする慣習があったのである(『県史』⑦一九八八)。更級郡田野口村(信更町)捨五郎が文政十年(一八二七)正月二十五日に登山するにあたっても、同様な品物が届いている。当日の朝、捨五郎の家では祝儀をいただいた人などに振る舞いをしたり、赤飯を配ったりしている。なかに女性の名前が一人みられる。捨五郎の登山のとき、その家から師匠に束脩(そくしゅう)(入学の礼物)として酒一升(御神酒(おみき))と赤飯三重箱を届けている(「捨五郎初登山祝儀品々覚帳」信更町 柳沢博重蔵)。表15・16の高野村寺子屋師匠は、登山にあたって寺子から御神酒と赤飯、御神酒と手拭いなどの組みあわせで束脩を受納している。

 正月二十五日に登山したことについて、塩崎地区では寺子屋のならいで、天神祭日の正月二十五日を寺子屋へ登山する日としていた。また、明治三十年(一八九七)ごろでも九月二十五日の天満宮祭礼には子どもの祭りがあり、子どもが寄銭(よせぜに)をして花火をあげたという(『塩崎村史』)。今日でも檀田(まゆみだ)(若槻)では、八月二十五日に天神祭がおこなわれている。八月二十四日の夕方、子どもが灯籠(とうろう)や提灯(ちょうちん)をもって村をまわる。翌日の本祭りでは天神社に集まり、神主に祝詞(のりと)をあげてもらい、健康で学習に励むことを祈願している。


写真53 檀田天満宮の本祭  (若槻檀田)

 万延元年(一八六〇)九月、善光寺町の中村ふさが寺子屋に入門したときの「御手本」をみよう。「御手本」の表紙には「伊呂波(いろは)・十干(じっかん)・町名(まちな)・尺桝(しゃくます)・十二支(し)・是非短歌(ぜひたんか)・五行(ごぎょう)・方角(ほうがく)・五常(ごじょう)・名頭(ながしら)」の学習内容が記載されていた。その内容を記すと「一二三四五六七八九十、いろはにほへとちりぬるをわかよたれそつねならむうゐのおくやまけふこえてあさきゆめみしゑひもせす京 月日 おふさ いろは相すみめでたく存候、丈尺寸両匁分厘毛糸石斗升合夕才(尺桝)、木火土金水ハ五行也、西東北南 四方 中央(方角)、日本 唐土(もろこし) 天竺(てんじく) 三国也、仁義礼智信 五常也、十干 甲乙丙丁戊己庚辛壬癸(きのえきのとひのえひのとつちのえつちのとかのえかのとみずのえみずのと)、子丑寅卯辰巳午未戌酉亥(ねうしとらうたつみうまひつじさるとりいぬい) 十二支也、善光寺 町名 相はじめ申たく候 大門町 毎日市をなしにぎはしく候(下略)」とある。このあと、善光寺町の二一の町名とその特色を記し、是非短歌、名頭とつづいていた。最後の二枚が破損していたが、このように生活に必要な文字やことばを書かせていたのである。町名の特色は寺子屋師匠が当時の善光寺町のようすを観察し、作成したものであろう。是非短歌は手習いの心得を示すもの。名頭は姓名、食物・動物・植物などの最初の文字を書きつらねたものである。この師匠の手書き手本を、ふさは一年半ほどで終了している(小林計一郎『長野市史考』)。

 市域の寺子屋師匠が作成した往来物として「海津往来」がある。作成年は寛延四年(宝暦元年、一七五一)で、作者は「高喜道文狸(ぶんり)」または「海津文狸」と末尾にあり、この人は松代藩士高久右門(たかくうもん)である(『朝陽館漫筆』『松代学校沿革史』)。内容は松代の歴史、松代藩の寺社の勧請(かんじょう)と建立(こんりゅう)、また政治や産物などで、信濃国のことも記している。文化六年(一八〇九)には、養蚕の実用的往来「養蚕手練記」なども作られた(『市誌』③)。また、消息(しょうそく)(手紙文練習)の文例に地域の地名を記したものもあった(「御手本 小坂松太郎」大宮市・小坂順子蔵)。

 算術については、これを教授していた寺子屋は全体の三割にも満たず、内容は「八算見一(はっさんけんいち)・開平開立(かいへいかいりつ)」くらいまでであった(『県教育史』⑤)。八算見一は珠算の割り算、開平開立は平方根や立方根を求めることである。算術の内容を当時の学習書からみよう。

 文政七年の『算法』(更北小島田町 岡澤由往蔵)では、「大数(たいすう)之事(大きい数の単位)一十百千万億町垓(がい)(中略)極(ごく)、量解(りょうかい)(量の単位)石斗升合夕抄撮圭粟(しょうさつけいぞく)、度解(どかい)(長さの単位)丈尺寸分厘一間 一町 一里、田数(でんすう)(広さの単位)町反畝、小数(しょうすう)(小さい数の単位)両文分厘毫(ごう)(中略)埃(あい)、九章(きゅうしょう)(中国の算数の本『九章算術』)方円(ほうえん)(広さの計算)粟米(ぞくべい)(米を精白にした減率・増率の計算)・勾股(こうこ)(三平方の定理を利用した計算など、九種類の名称)、掛算之事(中略)、相場割之事(中略)」となっていた(『日本人と数 江戸庶民の数学』などを参考に訂正)。

 嘉永五年(一八五二)『算術覚』(川中島町 中沢袈裟延蔵)には、「善光寺より江戸まで五拾三里、一町(ちょう)は六拾間(けん)、参拾六町合わせて壱里、間数を問う、答えて曰(いわ)く拾壱万四千四百八拾間になる」というような地域にそくした掛け算問題もあった。このように往来物ばかりでなく、算術でも実用が重んじられていた。