松代文武(ぶんぶ)学校は、松代藩の学校として安政二年(一八五五)に仮開校した。そして、図5のように文武の教場がととのった建物で、建坪四六〇坪余(一五一八平方メートル余)もある大規模な学校であった。この学校は武を大きく包んだ文武総合の藩学として、全国でも典型的な学校であった(石川謙『日本学校史の研究』)。配置図のうえでわかる特色の一つとして、上田・高遠・高島各藩の藩校には置かれていた孔子(こうし)をまつる聖廟(せいびよう)や聖座(せいざ)がないことがあげられる。
学校の遺構は槍術所を除いて現存しており、昭和二十八年(一九五三)に国史跡に指定された。その保存には、とくに松代小学校教員であった長岡助次郎が力を尽くした。文武学校の建物は松代小学校と松代中学校が授業に長く使用してきており、文化財保護のため昭和三十五年に学校に使われなくなったあともPTAなどの会合に使用された(青木修二『冠麓随想』)。明治五年(一八七二)に「学制」によって新学校制度になってからも、約九〇年間も松代町の教育を支えてきたのである。
文武学校はどのような経緯で開校されたかみよう。松代六代藩主真田幸弘(ゆきひろ)は、宝暦八年(一七五八)十月に菊池南陽(きくちなんよう)を江戸から招いて、藩営の講釈(こうしゃく)をはじめた。講釈の場所は、菊池の仮住まいする伊勢町御使者宿で稽古所とよんだ。菊池は江戸幕府の儒者である林家(りんけ)の助教をし、儒学の「春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)」に詳しく、礼書(れいしょ)も理解していた学者であった。松代へ三回きたが、二回目のときに藩士の子弟は講釈を聴聞するよう藩命が出されている。講釈は一時中断したが、天明九年(一七八九)に松代藩士岡野石城(おかのせきじょう)、そのあとを善光寺町の藤井藤四郎が勤めた。
幸弘は寛政十年(一七九八)に隠居して、七代藩主幸専(ゆきたか)に代わった。寛政十二年、岡野石城が江戸から戻って講釈を命じられ、藤井は解任された。文化三年(一八〇六)に殿町(とのまち)にあった稽古所が焼失して清須町(きよすまち)に再建され、文化八年に稽古所は学問所と改称された。文化四年には、岡野の門人西沢三郎四郎が儒書講釈を命じられ、つづいて、岡野石城の子岡野弥右衛門と金井新三郎が講釈を命じられた。西沢と金井とが「同盟規条」を合議して作成している。規条は一一条あり、教授者と学習者の心構えを定めていた(『朝陽館漫筆』)。文化六年四月二十六・二十七日に藩主幸専の臨席のもと、岡野は『詩経(しきょう)』、西沢は『礼記(らいき)』を講じ、ほかに一二人の学力優秀者が儒書を講じている。一二人のうち二人が出席がよいことで褒賞をうけている(『県教育史』⑦二六その一)。
文化九年に西沢三郎四郎が亡くなり、岡野弥右衛門も役替えとなった。しばらく講釈が途絶え、文化十年十月に林丈左衛門が江戸から移って講釈をするよう命じられた。林は号を単山(たんさん)といい、文化三年から江戸藩邸で講釈をしており、出身は領内矢代村(千曲市)の百姓といわれている。林は儒学のなかでも、朱子学(しゅしがく)を学んだ人で、いままで古学(こがく)を主としていた松代藩学の学風がかわっていった。かれは天保七年(一八三六)に病死するまで約二〇年間かかわった。
文政六年(一八二三)、八代藩主幸貫(ゆきつら)になると、藩士の師弟に文武の兼修を奨励した。講釈を藩主が聴聞するばかりでなく、武芸場にも藩主が臨場した。文政七年には竹内八十五郎(やそごろう)を句読師(くとうし)に、ほかに句読師助(すけ)を任命して素読(そどく)科を設け、幼年教育がはじまった。文の学問所では一〇歳、一五歳、二〇歳までの年齢別の三段階制を取りいれ、それぞれの試験の合格者に褒賞をあたえた。天保四年には二ヵ月間、江戸で名のある長野豊山(ほうざん)を迎えて教育にあたらせた。これは、建物より人が大切という山寺常山(やまでらじょうざん)の考えを受けいれたからだといわれる。天保六年には佐久間象山を林単山の講釈助に任命し、林の没後は象山が講釈の任にあたった(『朝陽館漫筆』)。
象山は天保八年五月に「学政意見書」を藩に提出した。そのなかで国を治めるには学問を盛んにすることが大切であるとして、そのために「学政策」と「学堂規則」各一〇ヵ条を示していた。象山の考えは天保九年三月に藩に採用され、素読と講義の終了者に試験がおこなわれた。文武学校になってもこの試験が受けつがれた(千原勝美『信州の藩学』)。
嘉永四年(一八五一)、幸貫は文武学校の創業普請惣奉行に家老の鎌原伊野右衛門(かんばらいのえもん)と小山田壱岐(おやまだいき)を任命した。翌年一月と四月に文武学校掛・創業取調掛・普請御用掛が任命された。この二月、家老恩田頼母(たのも)は学校建立は祖父の遺志であるとして金一五〇〇両を献じている。しかし、幸貫は同年五月に引退し、翌六月に没した。藩主は九代幸教(ゆきのり)にかわったが、幸教は八月、幸貫の遺志を継いで文武学校を建設することを真田志摩(しま)ら四家老の連署で布達させている。嘉永六年五月一日に城内の花の丸御殿が焼失したため学校の一部を藩の役所に使用したりしたが、七月一日には学校建物の上棟式をし、翌七年六月に完成している。