安政二年(一八五五)四月二十九日の文武学校仮開業にあたって、四月二十五日に望月主米(しゅまい)・宮下主鈴(しゅれい)・竹内八十五郎の三人が学校文学会頭に任命された。当日は藩主が病気で臨校しなかったが、家老・中老・大目付などが列席した。文学所では宮下主鈴が『大学』三綱領の講義をおこない、東序(とうじょ)では興伝流・甲州流・山鹿(やまが)流など八流の軍学講義、西(せい)序では礼儀作法・和漢医学・西洋医学の講義がおこなわれた。武術の弓術所では日置(ひおき)流など二流四派一〇人、剣術所では神道(しんとう)流・東軍(とうぐん)流など五流八人、槍術所では新当(しんとう)流・塚原卜伝(ぼくでん)流など七流一三人と西洋砲術二人、柔術所では二流六人と諸技六人の各師範家が模範演技や教授をした。終了後、学校広間で一同に赤飯が振る舞われ、会頭や師匠には殿中で祝酒(いわいざけ)が下賜された(『県教育史』⑦二六その一)。
文の教則は表17のように三科で三等級制になっていた。この表は明治のものであるが、以前からこのような教則であった。このほかに会読と輪講があり、経書を月三回輪講、漢史と国史をそれぞれ月三回会読し、歌会・文会・詩会を各月一回ずつおこなった。そして、素読・質問・講義の三科は午前八時から一二時まで、会読・輪講などは午後二時から五時となっていた。生徒はかならず文武を兼修することになっていた。
武の教育は各武術場で、馬術は殿町(とのまち)の馬場で、遊泳は千曲川などでおこなった。安政三年正月には、西序が槍術所として模様替えされ、南槍術所となった。そのため「文武学校文武稽古日割」が改正され、この南槍術所では剣術・槍術・長刀(なぎなた)・御家流砲術が指導された。この日割表によると、稽古日は休日の十日・二十日・三十日を除いて、午前と午後に分けて日割りされていた。たとえば日割りが一六に組まれていると、一・六・十一・十六・二十一・二十六日と一ヵ月に六回の稽古日があった(『県史』⑦一八八八)。
明治二年(一八六九)正月、幕臣武田斐(あや)三郎を招いて文学所に兵制士官学校を付設した。武田はオランダ・フランスのことばがわかり、フランスの兵制に精通していた。このように外国語を指導したことから、学校は洋学所とも称せられた。明治三年の一揆(いっき)(松代騒動)のあと、辞して東京へ帰った(『松代学校沿革史』)。
文武学校は明治三年に藩学校となり、翌四年に松代藩は松代県となって藩学校も松代県学校と改称した。明治政府は明治五年八月「学制」を公布した。当時の長野県は今日の東北信地域の範囲であった。そこを一四から一七番学区の四中学区に分けた。文武学校は第一六番学区第五四番として、松代学校が設立された。
文武学校は多くの人材を育てた。文武学校では東京高等師範学校(のち東京教育大学、現筑波大学)教授の植物学者斉田功太郎などが出た。兵制士官学校の出身では海軍中将で男爵にもなった鹿野(かの)勇之進ら軍人が多い(『松代学校人物伝』)。