寛文の如来堂

570 ~ 571

豊臣秀頼が再建したと伝えられる慶長の如来堂(本堂)は、元和(げんな)元年(一六一五)に雷火で焼失した。すぐに仮堂(かりどう)が再建されたが、これも寛永十九年(一六四二)に西町からの出火で類焼し、慶安三年(一六五〇)に仮堂が建てられた。この仮堂にかえて再建されたのが寛文(かんぶん)の如来堂である。寛文元年(一六六一)に寺社奉行所から信濃一国勧進(かんじん)を許されて浄財を集め、同六年に完成した。寛文如来堂はそれ以前と同じく、今の仲見世(なかみせ)の位置に建てられた。その瑠璃壇(るりだん)のあった場所に正徳(しょうとく)二年(一七一二)に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)像がまつられ、弘化四年(一八四七)の大地震や明治二十四年(一八九一)の火災のあとにも再造されて現存する。

 寛文如来堂の形は、現本堂が重層であるのと異なり平屋(ひらや)(単層)だったが、現本堂とほぼ同じ撞木(しゅもく)造りであった。梁間(はりま)(正面)九間三尺(一七・三メートル)、桁行(けたゆき)(奥行)二四間(四三・七メートル)、高さ(石口より箱棟(はこむね)まで)五丈六尺(一七メートル)である。現本堂は梁間二三・七メートル、桁行五三メートル、高さ二八・八メートルなので、およそその三分の二ほどの大きさである。正面向拝(ごはい)に唐破風(からはふ)がついていないのをはじめ、全体に粗末な造りだったらしい。なお、このとき中世の絵図類にみられる宝塔(三重塔)や楼門(ろうもん)(三門)は再建されず、古くからの礎石のみが残されていた。仁王門や回廊、鐘楼(しょうろう)なども復元されなかった。境内からの小路や院坊の位置は今とほぼ同じである。


写真1 旧如来堂跡 中世から寛文如来堂まではこの仲見世通りの地にあった  (元善町)