造営前期の人的組織と工事

573 ~ 574

元禄五年(一六九二)の出開帳にはじまった前期造営計画では、出開帳の資金集めとともに木材集めがすすめられた。用材は主として尾張領木曽の奈良井山(ならいやま)、松本領の中房山(なかぶさやま)・烏川山(からすがわやま)から伐(き)りだした。中房山からのものが多かったが、押野(おしの)村(東筑摩郡明科町)などで丸太数十本を綱で結んで筏(いかだ)にして流す。材木流しに各地から日雇(ひよう)人足延べ七八六二人を雇っている。新町村(信州新町)で一割ほど大きな筏に組みなおし、両岸からときには綱で引いてコントロールしながら流しくだす。この筏師は新町村で三〇人を雇った。丹波島(たんばじま)(更北丹波島)で合流する裾花(すそばな)川へ筏を移して川上へ引き上げ、九反(くたん)(中御所)で陸揚げした。ここから北国街道を北へ一直線に運ぶ。陸揚げした木材が洪水で流失しそうになったとき、神が老翁(ろうおう)の姿であらわれて木を留めたという伝承が、荒木(芹田)の木留(きどめ)神社にある。長さ一五メートルもある長大材には大八車(だいはちぐるま)を用いたが、大門町から境内へとのぼる急坂に苦労した。大八車が押しても引いても動かず立ち往生したとき念仏を唱えたらやすやすと動いた、といった伝説が残されている。元禄十年に用材はほぼ集まった。

 本堂の建築工事を統括する奉行には、大勧進代官の山崎藤兵衛、大本願代官の永田佐右衛門があたった。普請奉行(ふしんぶぎょう)は山田佐助、工事を指揮する大工(だいく)は合名七之丞(しちのじょう)・新井善右衛門・坂口伊左衛門・小野与左衛門・志村助右衛門・武藤彦市・片山孫之丞・佐藤治兵衛・近藤九兵衛・太田彦七ら一〇人であった。ほとんどが善光寺御用大工をはじめ地元の大工で、本堂の指図(さしず)(設計図)も善光寺大工が描いた。

 新しい境内敷地では、元禄十一年に地ならしをおこない、十一月十五日に「御地祭」を営んだ。整地された敷地には竹矢来(たけやらい)の囲いをつくり、「柱小屋」「梁(はり)小屋」など用材の寸法で分けた材木置場を小屋掛けした。また、「木挽(こびき)小屋」「大工小屋」などの作業場を建てた。それぞれ丸太から角材、板材の木取りをおこない、設計図にしたがって所定の寸法にととのえ、さらに木組みの穴をあけ、ていねいに削って仕上げる、といった作業がすすめられた。現本堂北裏にある千鳥ヶ池は、一説には本堂の基壇(きだん)をつくる土取りに掘った跡だというが、この池に材木(丸太)を浮かべ原木の樹液を抜き乾燥しやすくしたり、あるいは浮かべて容易に回転する木に木取りの墨付けをしたのだといわれる。むろん乾燥させるには、境内敷地に丸太で並べたり、板材にしてから立て掛けておいたりしたにちがいない。本堂の普請もすすみ下棟部から上棟部を組みたてる段階になっていた。

 これらの準備された用材のすべてが、元禄十三年七月二十一日の類焼で無為に帰した。門前から善光寺山内へも延焼し、院坊が燃え、寛文の如来堂(本堂)が焼け落ち、集積されていた加工ずみの用材もあらかた焼失してしまった。本尊は西町の西方寺(さいほうじ)に難を避けた。