前期の本堂再建計画では、大勧進と大本願との対立がさまたげになったり、慶運の追及で明らかになったことだが出開帳奉加金の使途がかなり乱脈だったりした問題があった。火災で大打撃をこうむった善光寺が自力でふたたび着手できる望みは薄かった。再建事業の挫折(ざせつ)を懸念した幕府は、ときの実権者柳沢吉保(よしやす)の甥(おい)といわれる慶運を推し、日光門主による補任(ぶにん)を実現させた。
慶運は再建事業から大勧進・大本願の関与を事実上閉めだし、独裁的に計画を推進する。そのためもあって、幕府に願って松代藩の監督を内命してもらい、出開帳奉加金をはじめ収支いっさいをその管理下においた。慶運の厳格な姿勢は、みずから終始率いた回国出開帳にまずあらわれている。随行者を信用できる弟子を中心に三〇人の小人数にしぼり、一行には現金をもたせず現金出納は会計担当一人に専任させて日用品も会計から買いあたえさせ、トラブルの種になりがちな夜間の外出を厳禁し、出開帳奉加金は善光寺へ送らず松代藩江戸屋敷へ直接届ける等々であった。このような慶運の厳格な管理姿勢は、以後の事業進行のすべてに徹底していた。
松代藩は奉加金を厳重に管理するとともに、慶運の回国出開帳がつづいている元禄十六年、工事現場に十数棟の普請・作事作業小屋と藩役人の居小屋(いごや)をつくり、藩主真田幸道(ゆきみち)の名代として家老の小山田平大夫(おやまだへいだいふ)を総奉行として派遣し、奉行クラスの役人以下、藩御用大工をふくむ総勢四四〇人を現地に常駐させた。
いっぽう、慶運は関東・東北を一巡して江戸で越冬した元禄十五年冬、自分の大保福寺へ幕府御抱え大工の大棟梁甲良豊前入道宗賀(おおとうりょうこうらぶぜんにゅうどうそうが)を招いた。幕府の御用大工組織は、大工頭を頂点に大棟梁-肝煎(きもいり)-棟梁-職人の系列でなりたっている。甲良氏は近江(おうみ)(滋賀県)出身で、豊後守(ぶんごのかみ)宗広が家康に仕え、代々幕府御抱え棟梁をつとめた。宗賀は日光東照宮を造営したこの宗広の孫で、この年七五歳であった。慶運は宗賀に善光寺本堂の設計と作事の指揮を頼み引きうけてもらった。宗賀は設計図をつくって慶運に渡した。前期工事での善光寺大工の設計図をもとに、造作をやや簡略化するなど若干の手直しをほどこしたものであった(宗賀はこの設計図を本堂完成後如来の加護への感謝を奥書に記して善光寺へ奉納した)。宗賀はまた、現地で作事いっさいを指揮監督する棟梁として、門弟の木村万兵衛玄喜(げんき)を推挙して送りこんだ。
木村万兵衛は元禄十六年五月、信州へやってきた。師匠の設計図を念頭に、それに適した木材を見つけて確保することが最初の仕事であった。三年間をかけて信越の山々を見まわり、必要な木材を一本一本探した。前回伐りだした松本領の山々は、適当な大材が少なくなっていたことと、犀川の木材流しで荒らされた村々が強く反対したことから断念した。けっきょく、千曲川上流の佐久郡南部(現小海町・南北相木村・南牧村・佐久町)に的を定めた。伐りだした丸太を筏にして千曲川を流下させ、犀川との合流点の落合(おちあい)(若穂)から犀川、裾花(すそばな)川をさかのぼり、前回と同じく九反(くたん)で陸揚げした。犀川の水量が少ない場合には、落合の下流の里村山村(柳原)まで流下させ、ここから二里(八キロメートル)の長丁場を運んだ。江戸から取りよせた大八車四〇台が用いられた。
それとは別に、再建本堂の床下や屋根裏の梁(はり)・桁(けた)、それに作業小屋などに使う木材として、善光寺領の旭山(あさひやま)・大峯山(おおみねやま)の松の大木がほとんどみな伐りだされた。地元で育った木は、建物の材となっても育った風土になじみ、長持ちするといわれている。
木村万兵衛は同じ元禄十六年、善光寺の現場で地割りを指示し、再建本堂の位置が定まった。翌十七年には基礎工事がおこなわれた。地面を一メートルほど掘り、そこに砂利と土とを交互に入れて突き固めていく(版築(はんちく)法)。柱の位置には穴を掘り、地下二・四メートル余に大石を埋めて大建築を支えるべき柱の基礎をがっちりと固めた。その上に礎石(一・二メートル四方の方形)を置き、これも基礎へしっかりと埋めて固定した。方形の基礎の上に円柱が立つが、これは「天円地方」(四角の大地が円(まる)い天を支える)という中国伝来の古代いらいの思想によっていよう。さらに基礎からの湿気(しっけ)を避けるとともに基壇(きだん)の崩れを防ぐため、漆喰(しっくい)を全面に塗り固める亀腹(かめばら)をほどこした(亀腹は鎌倉時代の善光寺本堂にもみられる)。弘化大地震にも耐えた善光寺の建物の強さの秘密は、なによりこの基礎固めにある。いっぽう、木取りをおこない、柱・梁(はり)その他必要な用材をととのえる作業も順調にすすんだ。
この間、江戸の大棟梁甲良宗賀は、藤田十三郎茂光・森万七郎定継・森嵯峨右衛門(さがえもん)定教らとともに、本堂の細部の検討、工事の仕方の検討などをしては木村万兵衛に指示を送っていたが、宝永二年(一七〇五)弟子二人を連れて善光寺へきた。四月十六日に「如来堂御事始(おんことはじめ)」の儀式をし、翌三年に建前(たてまえ)をした。そして同年四月には屋根を葺(ふ)きはじめた。この再建本堂では厚めの板(椹(さわら)・杉などの厚さ二~三センチメートルの板)を重ねていく挧葺(とちぶ)きという板葺きの屋根だった。屋根葺きは七月には終了し、そのあいだに内部の細部工事も急ピッチで進行した。ついに宝永四年(一七〇七)七月十二日に工事は完成し、八月十三日西方寺に遷座していた如来を迎え、翌十四日御堂の供養がおこなわれた。
大事業をなしとげた慶運は、その九月に東叡山(とうえいざん)寛永寺に出向き大勧進住職の辞表を出したが、善光寺の衆徒らの熱心な留任要請により思いとどまった。その後宝永七年に大勧進の客殿・方丈(ほうじょう)を建立(こんりゅう)するなどの仕事をし、正徳(しょうとく)三年(一七一三)三月八日、五〇歳になったのをみずから祝い、本堂裏の大勧進墓地に寿碑(じゅひ)を建て、翌四年に大勧進住職を辞して江戸へ帰った。享保十四年(一七二九)五月二十四日、大保福寺で亡くなった。くだって大正十年(一九二一)、大保福寺の墓を四天王寺(大阪市)に移すにあたって、分骨して寿碑の下に埋めて彼の墓とした。